人間の一生は短いものです。その短い一生の中でできることとできないことがあるように思います。例えば、すぐにできることは自分一代で得られることばかりですがもしも何代か先の子孫のためにとなればできないことが増えていきます。
この時間軸というものは、その人がどれくらい長い目で物事を考えて行動するかにかかっています。一見、無駄なことをと思えるものでも信念で取り組む人や自分が決めたことをやり遂げる人には周りの評価は気にならないのかもしれません。
そういう人たちの功績というものは、その方の没後に燦然と輝いてくるものです。今でも私たちが身近に触れることができる伝統や文化を通して私たちはその価値を享受することができています。今、私たちが恩恵を受けることのほとんどは最初にそれをはじめた人がいたからです。そしてその人の人生では周囲に認められなくても、その人が信念で切り拓いた道の延長線上で私たちは仕合せや豊かさをいつまでもいただくことができるのです。
今、名が遺る歴史の偉人たちはみなそうやって自分一代だけに囚われず本来の自己の使命を追求し、精進をして何よりも信念に生きた人だったように思います。
しかし実際には、人間は信念を維持することが難しいものです。自分一代の栄耀栄華に囚われ、他と比較して贅沢や裕福になりたいと願い、周りが持っているものはもってたい、周囲に評価されたい、安定して安心できる日々を手に入れたいと、様々な欲求を優先して信念が消失していきます。求める力もまた同時に減退してきて、生活に流されているうちにその生涯を終えることがほとんどのように思います。
そもそも物事の本質や天命や使命は変わることはなく不易です。しかし、時代の流れの中で恵まれた生活を送りたいと誰しもが思うものです。楽をしたい、安定したいと思うこともまた、人間の願望でそれ自体は自然なことです。大切なのは、どれくらい長い目で取り組んでいくことか、どれだけ真実に忠実に取り組むかということが、その物事の本当の価値を定めるように思います。
本流を貫き、本質を維持する、つまりは不易というものは自分の信念に従うことと深い関係があります。そして流行とは、時代の中で変化していく価値に対して本来の価値を守り続けるために自分の方が本質で居続けるための精進を続けていくことです。
温故知新は、新しい時代の流れの中にいて本来の初心を変えずに忘れずに取り組み続ける信念ののことです。変えないためには、変わり続ける必要がある。その日々に真実を求め続けて学び抜く本物の学力が求められます。
物事をそこまで本気で追求しようとする求める心は、自分の天命や使命に生きたいという信念と共に育ちます。信念に助けられ、没後でもいいと思えるような諦観を持ちたいものです。
引き続き、誰がどう言おうが他人からどのように評価されようが自分の中の信念とかんながらの道を達していけるように精進していきたいと思います。
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神社に御神木がありますが、その樹齢を見ると驚かされるばかりです。人の一生から考えたらその樹齢はとてつもないですが、長短ではなく懸命さは今からでも変えられることです。そんなことを今回の「致知」の記事や仲間の気づきから教えて頂きました。一人では揺らぎやすいものですが、共に目指すものを見ている仲間がいることは有難いことです。信念を磨き貫くような生き方を目指していきたいと思います。
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「志」と「野心」は似て非なるものであると言われます。「自分の代における結果とその評価」を求めるようであれば、ひとつの「野心」に過ぎません。そういう意味では、自分の「信念」がどちらであるか?!ということは、時々チェックが必要でしょう。義憤に駆られるときは、遅々として進まぬ現実に苛立つこともありますが、そういうときこそ、初心に基づいて、今できることを淡々とできるようでありたいと思います。
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身のまわりにある物事は全て天からいただいたもの、先人が切り拓いてくれたものばかりで何ひとつ自分が当然として受けられるものは無いことを思うと、そこには感謝しかありません。そのどれもが自己犠牲で成り立ってきたものでないからこそ後世に遺るものなのだと、励まされる思いを受けながら自分自身もまたあるがままに自分を使っていきたいと思います。