人は自分の居場所を感じることで心が安らかになるものです。しかし自分の居場所がなくて辛い思いをしている人もたくさんいます。過剰に周りを反応を気にしたり、どうせ自分のことは嫌われると決まっていると思い込んだり、もしくは本当の自分をつも我慢して無理をしていたりすると余計に居場所がなくなるものです。
そもそも居場所というものは、自分が居てもいいとゆるせる場所のことでもあります。ここに居てもいいとゆるされているというのは、自分のあるがままでいいと自分が感じられるということです。
自分のダメなところばかりを自分で指摘し、自分がダメだから居場所がないと思い込んでしまうループは余計に居場所をその人から奪うものです。こんな自分でも仲間は許してもらえる、こんな自分でも愛してもらえるといった自分への受容は、そのまま周囲の人たちへも居場所を提供することになります。
実際に自分の居場所がないと思い込んでいる人は、同時に周りの人の居場所もなくしてしまうような対応をしてしまうことがあります。例えば、自分から本音を隠して我慢すれば同時に相手の本音も遮断し相手に無理をさせていくという具合です。
だからこそ、自分のような存在を認めてくださっているという周囲の思いやりや温もりを感じたり、同時に自分からどんな欠点や弱点、短所がある人のことを愛する訓練が必要です。それは言い換えれば、丸ごとの自分を愛することやあるがままの自分も許してあげるという受容がいるのです。
一円対話の中で、傾聴、共感のあと受容があります。この受容とは、すべてを丸ごと認めてあげることでそのままでいいとゆるしてあげることです。言い換えれば、その人の長所も短所も転じてあげて認め褒めたたえるということです。
理想が高い人はすぐに自分を責めていきます。自分の身の丈を超えて努力してきた人ほど、理想との自分と現実の乖離がゆるせないものです。そのために自分を責めては、「これではダメだ」と自分自身に鞭を打っていきます。そうやって自虐を続けているうちに自分の中にも居場所がなくなり一人になってしまいます。
内面の自分との関係を良好に保つことができなくなれば受容することはできません。受容するためには、常に自分との対話を通して「ゆるす」ことで認めそこからお互いにカバーし合って助け合っていこうねという風土を醸成していく必要があります。
仲間と助け合う風土は、ダメ出しするのではなく認めて肯定しゆるすことで生まれます。自他を責めず、そういう時こそ「課題が見つかってよかった」と認めたり、「長所が分かってよかった」とほめたり、「学び直していこう」と改善したりすることで居場所はできます。
比較競争社会の中で、居場所がなくしている真面目ないい人たちが苦しまなくていいように家族のようなぬくもりのある社會に近づけていきたいと思います。
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学生時代の友人に会うとその頃に戻ったかのような安心感があり、今も続く関係に有り難さを感じます。その時々に必死になって苦楽を共にすると自然とそこにいるのが当たり前のような感覚があります。反対に異質なところにいると場違いで、落ち着かない感覚があります。ともに目指すべきものがある時、一緒でなって自らやりたいものになります。そう思うと、やりたい事があることは、居場所を見つけやすいのかもしれません。自分自身の初心に正直に実践を積んでいきたいと思います。
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相手は冗談のつもりかもしれませんが、その言葉がきつく苦笑いするしかないというケースが時どきあります。確かに不用意な言葉かもしれませんが、問題は、それを受け取る方の「過敏症」でしょう。「不幸過敏」になってしまうと、ほんとうに居場所はなくなります。自分のことばかり考え過ぎず、その繊細性を、「善意」や「好意」に向けられるようでありたいものです。
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お世話になっている道場でも、家庭や学校などで問題を抱えている子が多くおり、見た目ではわからないぐらい取り巻く環境に課題は多いようです。そんな中で共に汗を流しここが居場所になればという思いで皆いるのですが、様々なコミュニティに関わることも大切ですがに、今居る場が心地いい場に変わっていくことが一番のように思います。自分自身もまた安心の場作りという実践を積み、それを活かしていきたいと思います。