今年の夏季実践休暇の一環として、聴福庵で天神様の盂蘭盆会の供養を行いました。菅原道真は私の遠い先祖であることもわかり、日ごろ見守ってくださっている地域の天満宮の清掃と共にむかしの形式を学び直しつつお花や供物をお供えしました。
そもそも盂蘭盆会というものは、仏教からはじまったものです。お釈迦様の弟子のひとり、目連尊者(もくれんそんじゃ)が自分の亡くなった母が地獄に落ち逆さ吊りにされて死後もなお苦しんでいることが神通力を通してわかり、どうしたらその母親を救えるでしょうかとお釈迦様に尋ねたのがキッカケです。それに対しお釈迦様は、「夏の修行が終わった7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことができるであろう」とし目連尊者と僧侶たちがその教えに従うとその功徳によって母親は極楽往生が無事に遂げられたといいます。
ご先祖様への供養となるのは、仏教が中国に伝来してそれまでの儒教などと融合して発展したといいます。時期は南朝梁の武帝(在位502~549)の時代に同泰寺で盂蘭盆斎が設けられ以後、中国の年中行事の一つとなって大いに流行したといいます。日本では推古天皇14年(606年)の記録が古くのち先祖供養や祖霊来訪の民俗信仰と習合して正月と並ぶ重要な年中行事となっています。
この盂蘭盆会の実施の時期は、歴の関係で新盆とか旧盆とか月遅れとか呼ばれますが明治時代の暦の改変で変更されてからこうなっています。西洋のグレゴリオ暦にする前は、暦は年々変化しますからむかしはその暦の変化に合わせて御盆も実施されていました。お釈迦様のときは夏の修行後とあったので、私たちとは生まれた場所も異なりますから本来の日時も季節も同じではおかしいかもしれません。
しかし本質として、亡き人を偲び自らの心に供養をすることは亡き人の苦しみや悲しみを和らげることができまた同時に自他も仕合せになるという真理があるように思います。それを子孫たちが行うことには大切な意味があります。
実際に盂蘭盆会の準備でご先祖様が家に帰って来るという意識で供物やお花を用意していると、今の自分がなぜここに居るのか、そして多くの見守りに活かされているのかを実感し、有難い気持ちになります。
先祖や亡くなった方々があって今の自分があるという意識は、自分だけがよければいい、自分の世代だけ乗り切ればいいなどという自我欲が恥ずかしくなるものです。自分のことだではなく全体のため、子孫のため、地球全体のためにと生きてこそ、私のその先祖の一員になれるという気がしてきます。
また先祖の霊は山からくると信じられていますから、山の花々、山から下りてきた花々を一緒にお祀りすればまるで身近にご先祖様の霊が訪れ華やかに喜んでくださっている気がしてきます。
日本の行事の中には、先人からの大切な教えや回訓があります。学校の知識も大切ですが、本来実践して学ぶという行事からの学びは智慧の伝承として決して失ってはならないものです。
子どもたちに自分たちの代で途絶えることがないように、丁寧に温故知新し甦生していきたいと思います。
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お墓参りをし、手を合わせていると祖父母の顔が浮かんで来ます。今も仲良くしているのか、喧嘩をしているのか分かりませんが、それでも子どもの頃の思い出も蘇って来ます。お盆だからこそ気持ちも高まりますが、日頃からご先祖様への感謝も大切にしていきたいと同時に感じます。
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「供養とは何か」ということについていろいろ言われますが、大事なのは、ご先祖様に対する感謝と愛念ではないでしょうか。人の愛念というものは、その場だけを繕うことはできません。日々の生き方、日頃の心のあり方そのものです。また、日々の徳行が「廻向」の力となりますから、それは自分の生き方を省みる機会でもあるのではないでしょうか。
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この時期にこの土地を訪れるだけでも特別な感じがあり、稲が美しく実りつつある田園風景をはじめ山々や草花、奥地へ行けば苔むす岩々の間に小川が流れ、雄大な滝の姿があり、心身に活力を与えてくれます。昔から人が亡くなることを土に還ると言いますが、自然のその見返りを求めない姿はご先祖様の見守りのようでもあります。見守られていることを忘れず、心の持ちようを大事にしていきたいと思います。