聴福庵の箱庭には、白川砂を用いた砂利が敷かれています。この白川砂の白川とは、京都府京都市北東部、左京区を流れる川のことです。比叡山と如意ヶ岳の間に源を発し、京都盆地に流れ出てからは南へ向かって琵琶湖疏水に合流し、さらに南西へ向かって鴨川に注がれる全長 9kmほどのことろに花崗岩地帯から白い砂を流してくるので白川と呼ばれていました。今では条例でこの砂は採取できなくなっていますが、この砂が白川砂で御所、社寺などの庭園にはよく使われています。京都では銀閣寺をはじめ、有名な寺院の庭園は室町時代以降ほぼすべてで白川の砂が使われているといいます。
この白川砂が用いられた枯山水庭園は、禅の思想が入っています。禅宗寺院の方丈の南側には儀式をとり行うため清浄を意味する白砂を敷き詰めた「無塵の庭」がありました。そこが庇のある広縁が儀式の場に変わり、さらにその場が室内となったことから、南庭は儀式に用いられなくなったそうです。そこで瞑想や座禅の場にふさわしい造景として枯山水庭園へと発展していきました。
この枯山水庭園を簡単に言えば、水を使わず石、砂、苔、といった要素を用いて山水の風景を表現する庭園の形式のことをいいます。
日本人の美意識の一つとも言われる「わび・さび」には、この白川砂は欠かせないものです。現在は、採取できない関係で岐阜県産などもありますが特に「さび」が入った白川砂は温かみもありながら澄んだ光を放ち、独特な庭の爽やかさと優美な和かさを感じます。
情報化社会で日々に追われるように生活していく現代人において、この質素でシンプルな枯山水庭園を見つめる時間は、内面の自己とも触れ合う時間になり心が落ち着いてくるものです。
聴福庵は、「澄」にこだわっているからこそ枯山水庭園もまたその心澄むことに対する大切な演出の一つです。自然の持つ美しさ、その心に映る澄んだ真心を枯山水庭園で表現していきたいと思います。
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「こころを澄ませる」ためには、自分と向き合い、その汚れを丁寧に取り除く必要があります。そのときに必要になるのが、精妙な時空間です。その時空間が精妙であればあるほど、「自分のこころの汚れ」が浮き立ちます。いまは、いろんな意味で騒がし過ぎて、そういう場があまりありません。静かに坐って深く自分と対話できる時空間を大事にしたいものです。
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TVで枯山水をみると、思わず引き込まれ機会があれば一度見てみたいなと思います。砂、石、苔の芸術は身の廻りにあるものばかりですが、高め続けると人のこころを清らかにするものに昇華していく美しさを感じます。物が溢れる中で、わびさびを感じられるのは贅沢なことです。日々の中でも心を落ち着かせる時間を持ち、清らかな心で一日を振り返ることを大切にしていきたいと思います。
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京都で始めてそれを見た時は、石や砂で山水を表現するということの斬新さに驚きました。美しさと同時に、まるで子どもが遊びの中で夢見たものが現実化されているような、こんなことが出来るのかという衝撃もありました。左官職人さんの仕事もそうですが、自然を取り入れる感性の豊かさと一緒に、子ども心のワクワクがそのまま入り込んでいるから、そこから生み出されるものは純粋で澄んでいるようにも思えます。そのような美しい働き方を学んでいきたいと思います。