徳の兆し

人は知らず知らずに大きな恩恵をご先祖様からいただいているものです、それを「徳」とも言います。中国の易経の中に、「積善の家に必ず余慶あり」という言葉があります。これは善行を積み重ねた家はその報いとして子孫に必ず幸福がおとずれるという意味です。今の自分が仕合せなのは、先祖が長い時間をかけてじっくりと徳を積み重ねてきた余分を頂いているから幸福を味わうことができるということです。

これは自然界も同じで、私たちは自然の徳恵の利子をいただいてそれで暮らしていくことができます。この大自然から、私たちが食べたり生活したりする分を少し分けていただき安心して末永く暮らしていけるのです。もしもそれがなくなればすべての動植物たちは子孫を残すことができず、生きていくことはできません。先に生きた自分の先祖が真摯に自分の生を全うし譲ってくれたから自然の調和は永続してきたのです。

この逆に、「積不善の家に余殃(よおう)あり。」という言葉があります。 逆に、悪行を積み重ねた家には、子孫までおよぶ災いがあるという意味です。これを自然でいえば自然の利子で暮らすのではなく、資源をすべて後の人のことを考えずに自分たちで使い切るという生き方です。子孫には何も残らず、残るのは禍根のみです。

この徳を積み、徳を譲るということがどういうことか。

つまりは「足るを知る」心を持ってこそ、その徳を実感することができるように思います。そしてそれは感謝の心と一緒一体にあるものです。感謝のままに歩んでいけば、その行路のあちこちで徳恵に出会います。

それは例えば、思ってもいない人に助けられたり、有難い機会やご縁に恵まれたり、奇跡のような体験を味わえたり、その徳の兆しに巡り会うものです。その時こそ、自然に手を合わせたくなるものです。善いことを積んでいくというのは、いただいている分に感謝してそれを有難く使い、余分を次の方へと譲っていくものです。

本来、むかしの日本の先祖たちはみんなそのような暮らしをしてきました。その御蔭様で、今の私たちは世界でももっとも裕福な暮らしをすることができています。しかしそれを自分たちの代だけで使い切ってしまえば、子孫たちはその分、そのツケが巡り不仕合せな現実を与えられてしまうものです。

自分さえよければいいという刹那的な生活ではなく、自然に沿って自然の利子を大切に分度を保ち生きていく暮らしを自分のためにと実践していくことがその徳を譲っていくことになるように思います。

徳がすべての根本であることを自他ともに理解できるよう、御蔭様を観続けていきたいと思います。

  1. コメント

    アイヌやアメリカの先住民族の教えにも似たような教えを以前知りましたが、自然に沿った生き方をしていると言いかたは多少異なっても同じことを言っているのを感じます。ご先祖様が繋いで来てくださったものを、子どもたちへ繋いでいけるよう、自然に沿った暮らしの実践を深めていきたいと思います。

  2. コメント

    食される動植物は、本来は増えていくものです。すなわち、足るを知れば、その利子で生きていけるだけのものは十分に与えられているということです。しかし、そこに欲を出し始めると元金にまで手をつけることになります。人間以外は、必要以上にはとりません。「必要なものを得る」ことと「必要以上に得る」ことの違いを、もう一度認識する必要があるのではないでしょうか。

  3. コメント

    致知に「大豆100粒運動」についての記事がありました。そこには子どもたちに大豆を蒔き育て収穫し食べるだけでなく、先生方にもその本質に迫ってほしいとあり、自然と人間の関係を言われていました。どこまでその意味を深めて受け取るかは、そのまま今あるお蔭様を感じ、感謝を忘れないことに繋がるように思います。何事も上辺だけを見ず、深く物事を受け取っていきたい多思います。

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