昨日は自然農の畑で妙見高菜の種を蒔き直しました。昨年同様に、蒔き時を間違えたのかほとんどが虫に食べられ他の野草に負けてしまいました。殺虫剤などの農薬を使わない限り、ほとんど虫から新芽を守る手はありません。できる限りの手を尽くしても虫の圧倒的な量や威力にはなかなか手が届きません。
きっとむかしの人たちも同様に、何回も種を蒔き虫の威力が弱くなる時期を待ったかもしれません。もしくは、肥料等で土を活性化して新芽が負けないようにしたのかもしれません。自然農は無肥料無農薬なので、肥料は枯れた草くらいなので自然環境から学び直し、自分の生き方を見つめつつ自然の時期を掴みます。
この畑のある場所は、山の中で周りには畑もないことからイノシシやシカなどもよく出てきます。また雑草や野草の勢いは激しく、少しでも草刈りをしなければあっという間に様々な野草で埋め尽くされます。特に野草は、我先にと高いところを占有して種を遠くに飛ばそうとしますから自分の背丈よりも高い雑草たちが埋め尽くして草刈りが大変で骨が折れます。さらにはそこにツル系の雑草があちこちから畑に侵入してきて、周囲の防護柵などをなぎ倒していきます。一般的な平地の耕しやすい畑とは異なるので、野菜を育てるのにはちょっと不適切ではないかというところに畑があるのです。
しかし地力という意味で、転じて見方を変えてみるとそれだけ土は野草や雑草が瞬く間に広がるほどに肥えているとも言えます。表土を少し削るだけでもミミズや幼虫、様々な虫たちがどんどん出てきます。また多様な雑草の種類も多く、様々な野草が共生しながら楽園のように育ちあっています。その豊かな生態系が存在している場所で、野菜を育てるとイキイキとした野性的な野菜に育ち、その味は決してスーパーなどで買っているものとは大違いです。
私の育てている伝統の妙見高菜はそういう場所でこだわり育てています。だからこそ味にそれぞれの個性が出て、イキイキとした艶と食べ応えがある美味しいものになるのです。
そう考えてみると、この野生の中で育つということはいかに肝心なことかということです。人間もまた自然の中で育てば元気になります。この元気の源とは何かということなのです。
私たちは自分たちの都合で育ちやすいそうに育てやすいようにと、環境ばかりを整えます。自然のままにすることは、大変だからと加工した環境の中で肥料や農薬を与えて膨らませていきます。しかしその本質はどうなっているかということです。見た目を膨らませたとしてもその質はどうなっているのかということです。
自然のままに育つというのは、生きる力、元気の源を成長させていくことです。それは決して環境としては楽なものではなく、どちらかというと厳しく苦労ばかりがある場所ですがそこは生態系が豊かであり、生きる力を発揮している生き物たちで充ちており、野の中で自分のいのちを磨き上げていきます。
その場には確かに人間にとっての快適さはありませんが、人間にとっての心の平安があります。私が取り組んでいる自然農をはじめ、古民家甦生も、会社経営もまた古くて新しい教育を提案するものです。
引き続き、試練を楽しみ、試練から学び、子どもたちに生きる力の本質を伝承していきたいと思います。
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今年は例年以上に暑く、規模の大きな台風の上陸など各地で甚大な被害がありました。日常生活を送る上でも大変な影響があるのと同じように、畑でも同じことが起きていたのだと考えさせられるのと同時に、畑を耕して早7年が経ち、虫たちが増え作物が実るようになった有り難さも改めて感じます。鍬が入らなかったあの畑の環境が変わって来たのは、向き合った時間がそうさせて来たと思うと偉大なことです。自然から学び、その学びを活かしていきたいと思います。
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「育てやすいように環境を整える」というのは、自分都合であるだけでなく、本来の「育つ力」を削ぐことになりますから、ある意味、かなり傲慢なことです。「生きる力」をそのままに出せる環境というのは、面倒で、手間暇のかかることかもしれませんが、それぞれに「相応し環境がある」というところを見失わないようにしないといけません。「育てやすい」という罠に気をつけたいと思います。
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ある高齢者のリハビリ施設の特徴に、段差、坂、階段など日常で遭遇する可能性のあるバリアを意図的に配置した「バリアアリー」施設というものがありました。どこにも手すりがあって段差がない施設は、高齢者が自らがんばって身体を回復させようとする意欲を奪ってしまうという考え方に基づいているようですが、人間を取り巻く環境は常にこのバリアフリーとバリアアリーのせめぎ合いなのかもしれません。本当に求めているものは何なのかと突き詰めていきたいと思います。