自分には一体どのような天命があるのか、天に問い続けて今を全身全霊で生きることで人は命を通して天を知ります。
命を盡すということは、今のような時代は並大抵ではなくあらゆる刷り込みや比較競争や差別の中で自己を確立していかなければなりません。そのためには周りの雑音や自分の中にある雑念と正対する必要が出てきます。
論語では四十にして惑わずとありますが、天命に惑わなくなったというほどに真心の日々を孔子は天に問いながら道を歩んでいたのかもしれません。
真心を盡すためには、自分という我欲よりも天は自分にどうしてほしいと思っているか、そしてこれが会社であれば会社はどうしてほしいと思っているか、そして家ならば家がどうしてほしいと思っているかと、無私の境地で自分自身の天与の才を存分に発揮していく必要があります。
自分にしか与えられていない本物の才は、無私の時、忘己利他のときにこそ発心され発揮されていきます。自分はこうではないと不満ばかり並べたり、自分のことばかりを苦しみ思い煩ったり、思い通りにいかないことに不平を並べていては天命とは遠ざかる生き方をするのです。
全体快適とは、自分を含めてみんなが楽しく豊かになるために自分を活かしていくという道です。自分も楽しみ、みんなも楽しむ、そのためには、みんなで平和のために、世の中のために、そして子孫のためにと協力して和合していく必要があります。
天と命とは常に一体であり、その一体感を感じるとき、つまり至誠真心が天に通じているときにこそ人は天命に惑わなくなるのかもしれません。
自分の人生を生き切ることは、その評価を天にお任せするということです。いつまでも自分は自分はと自分に悩んでいては不惑とは程遠い心境です。
子ども第一義の理念を掲げている以上、余計なことを惑わずに真摯に今に至誠を盡して精進していきたいと思います。
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道を歩む上で、論語に三十にして立つとあります。これまでの歩みが30になり、この先の40、50と繋がっていくと思うとこの一歩一歩にかかってくることを感じます。その時が来て一喜一憂するのではなく、日々精進という歩みは同じく目指すもののために力を尽くしていきたいと思います。
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そもそも、「この命」が与えられていること自体が「天命」なのでしょう。したがって、基本は「この命を素直に生き切ること」ではないでしょうか。その上で、今世の「役割」を認識するというか、気づくことが大事です。ただ、人生には「今世の課題」も含まれています。この「課題」との戦い、すなわち「克己の工夫」を日々重ねてこその「天命」ではないでしょうか。
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松陰先生の講義の中で引用されていた「成敗利鈍に至りては臣の明の能く逆覩する所にあらざるなり」の言葉を聴き、天に任せて死ぬまで尽力するという姿こそ本当の意味で生きることなのだと感じました。私たちは幸い和の精神が原点にあり、自分を空しくしてまでも周囲の為にいのちを尽くすことの出来た民族だったように思います。子どもたちの幸せな未来を願う時に、最も私たちの精神が活かされるように思うからこそ、原点を忘れずに自分を使っていきたいと思います。