聴福庵には、数々の神様が祀られています。玄関には大国主、茶室は鞍馬天狗、囲炉裏の間には愛宕明神、おくどさんには三法荒神、トイレには烏枢沙摩明王、井戸には八大龍神、お風呂には跋陀婆羅菩薩、床の間には天神様、そして恵比寿様や地域の氏神様、その他にも個人的に座敷童や輝夜月姫や炭場神様などを祀っています。
改めて省みるとこれだけの神様が暮らしの中で一緒に家で共存しているというのは大変な驚きですが、これがむかしから八百万の神々をお祀りしてきた日本人の家の姿です。現代では、宗教が法律で定められこんなにいろいろなものを祀っていると多神教なのかと言われそうですがすべてのものにいのちが宿る存在して大切にお祀りするのは私たちの先祖伝来の生き方なのです。
ご縁がある神様を祀り、ご縁がある道具たちやいのちたちを祀る。この「祀る」というのは、いにしえでは「神和ぎ」(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈りました。その伝統のお祀りは道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔に手を合わせ日々の感謝を祈る習慣となり日本の各地ではあらゆる神様がお祀りされているのです。
これは自然信仰から発生したもので、私たちは元来自然と共生する民族として常に自然の荒ぶる側面と和ぎの側面と共存して生きてきました。自然に逆らうのではなく、自然とともに暮らしていくことが永続して仕合せに暮らしていく人類の智慧だったのです。
現代では、家に神棚も仏壇もなく道端の道祖神や祠なども撤去されてきています。神様がいるかどうかや宗教がどうかではなく、本来の日本人の暮らしが消失していることの方が問題の本質だということです。
自然とともに生きていくというのは、日々に感謝に生きていくということです。
伝統の暮らしの中には、自分を活かしてくださっているものへの畏敬の念と感謝の心、そして真心の実践は常に一緒一体になって存在しています。
時代が変わっても変わってはならないものがある。それが子孫たちの繁栄をいのる先人からの智慧の伝承であり、自分の代だけの栄耀栄華ではなく子々孫々が安らかに平和に暮らしていけるように祈る願いと祈りなのです。
引き続き子どもたちのために、祀り続けて傳灯を守り続けていきたいと思います。
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「聴福庵」に祀られている神様を整理したときに、たくさんの神様に見守られていることを感じました。実家に神棚はなく、初詣の時にしか、手を合わせるということもありませんでしたが、古事記に触れ神様のことを知るにつれ、日本という国を知りはじめたように感じています。「聴福庵」に行くたびに、毎回新たな発見があります。その気付きや自分自身が感じ入ったものを、子どもたち伝えていけるよう、学びを深めていきたいと思います。
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「信仰」の本質は、「感謝」ではないでしょうか。八百万の神々を認識する日本人は、あらゆるところに、あらゆる機会に「感謝」しながら暮らしてきたのでしょう。「おかげさま」で始まり、「おかげさま」で終わるの日常をもう一度取り戻したいものです。
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道端のお地蔵さんに手を合わせなくなったのは、家などの身近に神様が居なくなったからかもしれないという話には納得するものがありました。神様というのはそこに存在するのではなくそのものを観る自分の心のなかにあるものであり、全てのものに神が観えた心が尊いように思えます。何かに求めるのではなく、心の中にある感謝の心を大事にしていきたいと思います。