人は忙しすぎると心が迷子になるものです。一体、自分がどこを歩んでいるのか、何のために歩んでいるのかを思い出せなくなります。ゆっくりと丁寧に自分の足元を踏み締めながら遠い目的地に向かって日々に歩んでいくのなら心は迷子になりませんが、忙しくなりすぎて不安や焦りが出てくると急にスピードが上がってしまうこともあります。
これはスピードが上がったから忙しくなったのか、それとも忙しいからスピードが上がるのかわかりませんが心が迷子になってしまわないように工夫するしかありません。
目の前のことに追われていくと、目の前のことをこなすだけで精一杯になるのは誰もが同じです。その時々に心が何を感じたか、自分が何を思ったか、外側の変化と合わせて内面の変化もまた一緒に味わうことで心身は成長していきます。
心が迷子にならないためには、初心を忘れないようにしていく必要があります。この初心というものは、どんなに修練を積んだ人物であっても忘れてしまうのです。かつて世阿弥が初心忘れるべからずの中で、自らの若き時の芸の未熟さを忘れてはならないとも言っています。人は次第に無意識に傲慢になりますから、つい若いときの屈辱や恥ずかしい気持ち、そこから一念発起したときの決心を忘れないことをいいます。なんでも慣れてくると次第にマンネリ化してきて新鮮な気持ちが失われていきます。自分の中で組み立てられたやり方でやっているうちに様々なことが分かった気になってしまいます。
分かった気にならないためには謙虚さが必要で、そのためには初心を忘れない工夫が必要です。つまりは学問のように常に深め続けて自ら磨き続けて高め続ける実践がいるのです。
それを日々にコツコツとブラッシュアップしていくことが初心を忘れていないともいえます。この初の心というのは、赤ちゃんの心のとも読み変えられます。どんなことからも丸ごと吸収していく好奇心の塊、その心です。年々、歳を経てくると赤ちゃんの頃の新鮮な気持ちが失われてしまいます。新鮮な気持ちを失わないで生きていく人は、赤ちゃんのままの心で居続けるということです。
心が迷子になるというのは、無理に大人になってしまって赤ちゃんの自分の心を置き去りにしたということでしょう。日々に振り返り、自分の心と対話していくことは自分はどうしたいのかと自問自答していく自学自習の楽問です。
子どもたちのためにも、子ども心を守るため、真心を大切にしながら日々に感謝で歩んでいきたいと思います。
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だんだんと熱が薄れては、何かをきっかけに再燃することがよくあります。その繰り返しですが、温まり直すごとに思いが強くなっていっているように思います。繰り返す波の中で、自分を叩いて強くしたり、共に学び合える仲間がいることは有難いことです。いつも初心のままにということは難しいですが、自分自身の心を取り戻せる工夫や実践をいくつも持って
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「分かった気になる」というのは、自分の進歩がそこで止まっているということかもしれません。一歩でも前進していると、「昨日までの自分は、まだ甘かった。何も分かっていなかった」ということの連続になるはずです。少しでも気を緩めるとすぐ「慢心」し、簡単に「謙虚さ」を失ってしまいます。「悟後の修行」こそ欠かせません。「その程度で分かった気になるな!」と言い聞かせながら学び続けたいと思います。
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立ち方や運足がぶれると途端に身体が使えず力が入らなくなることを先日実感しました。生き方でいえばこの軸となるものは心であり、そこが乱れれば何事も用いれなくなるように思えます。全ては心から発するものとして、目的のために常に自分の状態がどうなっているかを省みていきたいと思います。