人類は多様性を発揮しながらここまで進化進歩してきたとも言えます。簡単に言えば、多種多様な人種が地域地域で発生しそれぞれに文化を醸成し発展と繁栄をして現代に至っているとも言えます。
この多様性というものは変化に富み「生物の多様性を保つ」ということで、英語ではdiversity(ダイバーシティ)と呼ばれています。変化=多様化であり、多様化するときのみ人は変化するということです。
しかしこの多様化できなくなる理由は、異質なものを認めなくなることではじまります。つまりは画一化、同化でありみんな一つのものにしてしまおうとすると変化が消えます。これを標準化という言い方もします。みんな同じ顔、同じ服、同じ個性にすれば確かに管理しやすいかもしれませんが多様性は消失するのです。
この多様化の維持においてもっとも大切なのは何か、それは「尊重」することです。尊重される集団や組織の中では、異質なものがそれぞれに不安を感じることがありません。言い換えるのなら、それぞれが自分らしくいられるということ。自分らしくいることで不安を感じない、つまりは個性を尊重し合っていて個性を誰も潰さない関係があるということです。
世の中は、個性が出ている人をみるとすぐに変人扱いをし時には犯罪者や精神異常者のように偏見で見ようとします。本来、みんなそれぞれに異なる性質をもって生まれてきたものが教育や環境によって画一化されていてそれが当たり前になり常識として認識するとそこから外れた人たちはみんな変人となるのでしょう。
しかし、みんなと同じだから安心しているという安心感は尊重された安心ではなくみんなから弾かれない、周囲から疎外されない、攻撃されないときの安心であり、自分のままでいいといった自己安心感ではないのです。
人類は多様性を維持することで変化し、成熟した文化と文明を築いてきました。現代は技術も革新しており、人間の成熟もまたそれ相応に進んでいく必要がある時代ともいえます。しかし自然な流れに逆らい、無理に画一化して多様化を止めて個性が蔑ろにされるのなら人々の不安は他人への攻撃になり差別の元になりかねません。
「尊重し合う」社會の実現は、それぞれがそれぞれの異質を認め合う中からはじまります。そのような社會や環境を用意していく人こそ、人類において真の教育者であり真の政治家ではないかとも私は思います。
引き続き、見守り合う環境を学びつつ個々を尊重する仕組みを発明していきたいと思います。
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学生時代の漢字テストで「付和雷同」と出てきて、何故だか印象に残り、今でもよく覚えている熟語です。熟語の意味は、「自分に決まった考えがなく、他人の意見に軽々しく従うこと・自分の主義、主張を持たずに人の言動につられて行動することを表します」とあります。多様性とはまるで離れるような意味ですが、その当時、付和雷同ではない在り方を求めていたから、よく覚えているように感じます。今果たしてどうか、ということもありますが、自分自身の信念を磨いていくということを改めて大切にしていきたいと思います。
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本来、すべてのものは「個性的」であり「多様」なのでしょう。それが、ほんとうの「豊かさ」なのではないでしょうか。それを、管理するための都合等で分類しようとしたところに、いろいろと歪が出てきているのかもしれません。「豊かさ」とは「尊さ」でもあります。そして、この尊さこそが真の「価値」であり生かすべきものなのではないでしょうか。
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人との異なりを感じた時に、それがいいものに見えるかわるいものに見えるかで人生は大きく変わるように思えます。それもいいと受け取れている時は尊重し合えている感覚がありますが、それを妨げるものは不信や不安なのかもしれません。人類はそれによって傷つけ合ってきた歴史もありますから、安らかに信じて豊かさを感じ合う方をみていきたいと思います。