怒りから学ぶ

人は怒りを持つことで、それが義憤になることもありますがその矛先を自分に向けると自分を責めてしまいます。自分を責めないというのは、自分に対して怒らないということです。人は怒るときに攻撃します、その攻撃が相手に出る人は暴力になりそれが自分に向くときは責めることになるのです。

この怒りは何処から来るのか、それを日本アンガーマネージメント協会代表理事の安藤俊介さんはこう言います。

『怒りの源泉は、人間が持つ「自分の身を守る感情」。動物は敵が現われたとき、すぐさま相手に飛びかかったり、逃げ出したりできるよう、臨戦態勢に入ります。その際、アドレナリンという心身の興奮状態を作るホルモンが分泌されます。これが怒りの源です。また、自分が守りたいテリトリーを脅かされたとき、同じように臨戦態勢に入ります。そのテリトリーとは、誰しも心の中にある、「こうあるべきという価値観(思い込み)」です。』

人はそれぞれに価値観が異なります、自分と価値観が異なる人に共感できずにいたらどうしても自分の価値観を守ろうとします。その時、本能的に自分を守るために怒りの状態になるということです。

確かに、腹が立ちイライラするのは相手のことがどうしても許せない時や、許せない自分に怒っていたりします。価値観を分かり合えないとき、複雑な感情が怒りとして出てくるのかもしれません。そして怒りは同時に必要なものだといいます。

「怒りはゼロにする必要はなく、むしろ必要な感情です。怒りを失った人間は危険察知や防衛本能すら失い、この世を生き抜くことが困難になります。実際、側頭葉を損傷し、怒りの感情をなくした人が、何が危険なのかわからなくなり、リハビリ中、怪我をし続けるという事例が報告されています。」

つまりは、自分を守るというのは誰にしろ必要な力です。それが正常に働くように調整する、過剰になりすぎるのは守りすぎたり責め過ぎたりとバランスを崩しているからです。自分の感情を理解していくことは、自分自身との付き合い方を学び、自分を大切にしていくプロセスになるように思います。

誰かによって一方的に価値観を押し付けられ、それに対して感情を押し殺していい子でいようとしたり、親に逆らえずに我慢してその分、自分を偽って誤魔化したりして親の気を引こうとするとかえって自分への怒りに呑まれてしまいます。そんな時大切なのは、怒りの矛先を何処に向けるかというマネージメントではないかと私は思います。義憤というものもまた、その怒りを力に換えて行います。人間は、悲しみも怒りも力に換えることができるからです。

そしてむかしの未熟な感情を引きずっていたとしてもその時を大人になって思えばその時の自分も親も生まれたて出来立ての弱くて未熟な存在だったのですからお互いに間違いを許し認めて「ごめんね」と謝れる関係、また「お互い様だね」と分かち合い思いやれる関係、いつまでも心に許せずに引っかかってしまった自己との対話の修復を、時間をかけて傾聴、共感、受容、感謝で溶かしていく必要があるように思います。

改めて私たちの取り組んでいる一円対話の価値を見直しました。引き続き、感情と向き合い自己と健やかで安らかな関係が築いていけるように日々に心に耳を傾けていきたいと思います。

  1. コメント

    動物が産まれてすぐに立つように、そして、身を守るために威嚇することも、動物から考えると必要なことなのだと感じます。人間だけ、自分はと動物とは別物のように考えると、大人にのだから感情的になってはいけないなど、余計なことを考えますが、それよりもバランスを崩していることに気づくサインなのだと受け取ると、次にすべきことが見えてきます。そして、学びはあちこちにあり、それに気づき取り入れていく感性が必要なのだと感じます。

  2. コメント

    「我慢」は「慢心」のひとつだと言われます。この我慢が積もると「大きな怒り」になって爆発することがあります。自分の感情をコントロールしようとして、変な我慢をしていないか?!それが、知らぬ間に積もってしまっていないか?!引っかかったまま引きずってしまわないように、自己との対話を深めて修復していきたいと思います。

  3. コメント

    相手も別のところで頑張ってくれている、お互い様だからと思っていると、相手への怒りはそのまま立場を代えた自分への怒りにしかならないことがわかるため、その不毛さを棄て思いやりを大事にしようとむしろ穏やかな感情が戻ってきます。しかし、一瞬の怒りは中々抑えることは出来ず、そのような時に火をつけ傷つけていないかはよく注意が必要なことを感じます。根底には誰もが同じ仲間として共存共栄していける方をみていきたいと思います。

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