今年も自然農に取り組む中で思い通りにならないことばかりを経験しました。お米はイノシシに荒らされ収穫直前に全滅。高菜は3回種まきをし直しましたが1回目は育たず雑草にすべて負け、2回目は虫に食いつくされ、3回目はモグラに土の中を穴だらけにされ育苗が失敗しました。
今年は特に自然の厳しい状況を受けており、今まで以上に葛藤と挫折の中で心を何回もへし折られました。その都度、なんでこんなことにとイライラしては畑に怒りをぶつけます。しかし畑にぶつけても何の解決にもならず、どうしたらと次を考えてまた取り組むのみです。
自然はいつも自分の思い通りになることはありません。
自分が思い通りにしようとする傲慢さは何処から来るのか。それは頭で考えて計画を立てているところにあるように思います。人間は自分の思っている通りにする過程で、自分の考えた通りにしようとします。しかしその考えは自分の都合の良い考え方であり無理やり周りの方を変えようとしてしまいます。自分が周りを変えることで上手くやろうとする、ここに傲慢さが潜みます。
本来は自然に対してそれができるかといえば全くの不可能であり、自然に対しては自分が変わるしかありません。しかし自分が変わるというのは、自分にとっては不都合なことばかりが押し寄せてくるものです。
たとえば、時機を待つこと、寄り添うこと、よく観察すること、声を聴くこと、試行錯誤すること、自分勝手にはいかずどれも「自分から」主体的に関心をもって深くかかわり続ける必要があります。自分のペースを優先すれば自然のペースから乖離していきますから、自然のペースをまず理解する必要があります。
それは「焦らない」ということでもあります、言い換えれば天にお任せして信じるという心境です。
自然はちゃんと自然のスピードで物事を動かしていきます、間違っているのは自分のスピードの方と気づかなければならないのです。大きな成功も成長も、大きければ大きいほどに時間がかかります。高い山であればあるほどに登頂が困難を極めるようにそれだけ達成感も充実感もあるのと同じです。
自分が一体、何の目的に対して挑んでいるのか。それによって進む速度も歩む困難さも異なってくるのです。簡単に誰でもすぐに達成できるような目的ならそんなに苦労はありません。苦労が多いのは難しいことに挑んでいるからであり、それだけ偉大なものを動かそうと頑張っているからなのです。
自然農を通して何回も頭を叩かれて反省を繰り返すばかりですが、私の都合で何回失敗しても自然は丸ごと清濁全て受け容れて何度も挑戦をさせてくださいます。この大きな見守りの中で、自分を磨き謙虚さを学び直すことは自然がある故に実現できることかもしれません。
自然から離れないことこそ人類の真の発展と永続を約束するものかもしれません。
自然から学び直しながら、現代の人たちの苦しみに寄り添い共に子どもたちの憧れる生き方ができるように取り組んでいきたいと思います。
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管主さんのお話の中に、「芽を出す時期があり、花が咲く時期があり、実がなる時期がある。それ相応のときがあります。加えて、お日さまの力も、雨の力も借りないといけません。さまざまな条件が整わなければ、なにごとも結実しないのです。」とあり、今回のブログの記事と共に考えさせられるものがあります。何で種を蒔いたのに芽が出ないのだと嘆く前に、土の中で、見えないだけで懸命に力を尽くしているのだと、種の気持ちになって今という時を尽くすことを大事にしていきたいと思います。
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野菜作りなどをしていると、「人間の都合」というか「自分の都合」というものが炙り出されてよく見えます。「願い」というと奇麗に聞こえますが、それは「自分の思い通りに」ということであり、「自分の思い通りにものごとが運ぶ」というのは、「自分の都合」でしかありません。特に、「自分に都合のいいスピード」や「自分に都合のいいタイミング」ということには注意したいと思います。
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自然のままであれば野に放たれた動物と同じですから、ある程度の人間都合の文明というものも必要であるし、その恩恵も受けてきたことに感謝も必要になると感じます。その上で、度が過ぎた人間都合はやはり見直していく必要があり、そこに目を向けていきたいと思っています。偏らずにバランスを大事にしていきたいと思います。