言葉というものは時代の価値観と共に変化するものです。それは時代の価値観が反映されて言葉を使う人たちの間で変わっていくからです。つまりは言葉というものは、そもそもそうやって人間の間で不確かに生き続けて形を変え続けるものだからです。だから言葉のことを言霊とも言うように思います。
たとえば、孔子の時代に孔子が弟子と問答した論語もまた時代の流れと共に変化してきます。春秋戦国時代に使われていた仁義などの言葉も、平和な時代に入るとその意味が少し変わっていきます。それを今度は、孟子という人物が本来孔子の言うのはこういう意味であると言葉をその時代の人たちに真実が分かるように翻訳していくのです。
日本でも朱子学や陽明学をはじめ孔子の教えが本質を維持するように、その時代の翻訳者たちがそれぞれに時代背景に合わせて言葉の定義をしてきました。時代と共に言葉が分化していくのは、それだけの時代を経てきた証拠でもあるのです。
この儒教だけではなく、当然仏教も、神道もまた時代が変わるたびに少しずつその言葉の意味が変わり真実が分かれていきます。その真実を見極める人たちによって、できる限り最初の意味や本来の定義が変わらないように伝承されていくことでそのものが時代に受け継がれていきます。
人間を教育するというのは、この言葉の定義や意味を本来のままに使えるような人々を増やしていくことです。そのうえで、同じ定義を用いてお互いに学び続けて人格を高めていくことが必要になります。
人間は社会を育てていく生き物ですから、社会の一員として言葉を用いて平和な社會を築いていく必要があるからです。
今の時代は多様化が進み、言葉も乱雑化してきています。ありとあらゆる言葉の使い方をする人たちも増えてきて、本来の意味も湾曲して自己解釈が自由勝手に行われている時代でもあります。言葉が氾濫しているといってもいいかもしれません。本来の意味ももう違う意味で刷り込まれてあまりにも反対の意味になっているものが、そのまま使われていたりもします。
学問をする人たちが、それぞれの場所でそれぞれの道で本来の言葉の意味を真実のままに伝えるしか正統を維持していくことはできません。大事なのは古今の聖賢たちが観ているものを一緒に観続けて精進していくことかもしれません。
引き続き、何が真実であるかを求めて日々に言葉の定義を深めていきたいと思います。
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孔子の言葉を翻訳した孟子もまた、実践家だったのだろうな思います。そして、時代に適したものを発信していくというのは、昔も今もかわらず大切なことで、実践している人の言葉には重みや深みを感じます。ただ、翻訳しただけではなく、言霊を伝え続けていると思うと、自分自身もまた担い手であり、発信者なのだと感じています。言葉の表面ではなく、その真意を掴んでいけるよう精進していきたいと思います。
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「古典との対話」の基本は、「まず言葉に習熟することであり、言葉が自分のものとなったとき、やっと古典の世界は扉を開いてくれる」と言います。私たちの先輩がそれを大事にし努力して、日本語を丁寧に継承してくださったお陰で今があることを感謝します。ただ、ここにきてその日本語が乱れています。言葉の種類が極端に減り、使い方が雑になっています。私たちが、正しい日本語の翻訳を間違わないようにしなければなりません。
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そのままでは伝え遺すことは出来ず、それを思うと言葉というものは深いものであると感じます。凝縮させた氷のようなものでそのままでは用いることが出来ず、その使い手が胸の熱気でそれをとかす必要があると聴きます。どれだけどのようにとけるのかは、いざ自分がやってみなくてはわかりません。都度翻訳をしてみて、そのものの認識をはかっていきたいと思います。