人間は仕合せでいるためには、本当の自分というものをもっている必要があるように思います。周りに合わせたり、周りを気にして自分を偽れれば偽るほどに仕合せは遠ざかっていくものです。
たとえば、好きなことをやっている人たちが仕合せなのは自分のためにやっているからです。誰かのためにというものもありますが、それが自分のためになることを自覚しているのです。
むかしの日本の格言に、「情けは他人のためならず」というものがあります。この本来の意味は「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」というものです。
情けをかけた気になって他人のためにしてやったと思い何度も続けているうちに、なんで自分ばかりこんなことをしなければならないのかと文句を言う人もいます。しかしそれは自分のためにやっているということが分からなくなっているのかもしれません。
仕合せというものは、自分の心の充足でありそれは自分らしくいることを維持することです。そのためには、常に半分この状態、つまりは半分は相手のためだけど半分は自分のためにやっていると気づくことのように思います。
好きなことが嫌いになったり、やりたかったことが単に辛いだけになるのはどこかで自分を見失っているからかもしれません。自分が好きでやっていることだし、これは自分のためになっていると思っている人は楽しむ力、言い換えれば豊かさを持ち心の余裕が広がっています。その逆が好きでもないことを誰かのために我慢してやっていると思うと、途端にネガティブになり貧しい心が不幸を呼び込みます。
周りからどう思われたいかを気にして生きていくことは、本来の自分を偽って生きていくことです。地位や名声、世間の評価や役割を果たしていくことにばかりにあまりにも関心を持つと仕合せは逃げていくように思います。
自分らしくいるというのは、自分のためにやっていると自覚することです。好きなことをやっていると自覚できるのもまた、自分にとってこれが大切な価値があることだからと自認しているからでもあります。
周りを気にするのは、どこかたった一度きりの唯一無二の自分の人生を他人に委ねすぎて流されているかもしれません。主体性を見失い自分で思考を停止してしまうと、結局は自己を喪失し憂鬱さばかりが頭を擡げ心身が疲れ果ててしまいます。これも今の日本の社会全体が幼少期より比較競争や他人の人生を生きるように評価されてきた不安や恐怖の刷り込みが自分の中に残っているからです。
だからこそ敢えて意識して自分らしくいること、つまりはこの世に生を得て生きていくのだから自分が好きでやっていてすべては「自分のため」になっていることだからと、からりと晴れた清々しい気持ちで自分は自分なのだと日々を安心して過ごしていきたいものです。本来の内省は何のためにあるのか、それは他人の評価のためではなく自分のためにあるものなのです。自己内省の習慣は本来の自分を取り戻すための大切な智慧なのです。
子どもたちには、そのもののあるがままの価値に気づいてもらえるように私たちが自分らしくいること、自分のためにやっているという幸福な生き方を示していきたいと思います。
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小さいときから「比較競争」の世界に生きてきましたから、私たちの発想は「相対的」になっています。特に「評価」を気にすると、「評価者」次第で「自分の力の出し方」が変わってしまいます。これでは、「本来の自分」というものを発揮することができないでしょう。「人を相手にせず、天を相手にせよ」という言葉もありますが、「人が相手」だとどうしても「相対的」になってしまいます。やはり、「比較競争」の価値観をどこかで手放さないといけないようです。
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「知好楽」ではありませんが、楽しい時はたくさんのものを吸収していきますが、楽しくなく、宿題のようにやらされている時は全然身に付きません。楽しいことを、もっと楽しくワクワクが発動していくような心の状態を大切にしていきたいと思います。
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「自分のため」という言葉の定義にも色々あるように思えます。直接的に自分に働きかけるそれは我や欲になりやすく、間接的に自分にめぐってくるそれは徳とも言えるのかもしれません。何れにせよ理屈が通ることは大切ですが、それ以上に純粋に心のままでいられることが一番いい状態のように感じられるからこそ、あるがままを大事にしていきたいと思います。