正月を迎えるために準備をしていますが、改めてなぜ歳神様をお祀りするのかといった原点を改めて調べていると気づくことがたくさんあります。今では、生活様式が変わりむかしの暮らしが消失していますからかつての伝統的な暮らしの名残だけがいくつか残るばかりですが本来はすべて意味があったものです。
たとえば、歳神様というものは神道の神様であり年神様は、家々に1年の実りと幸せをもたらすために、高い山から降りてくると考えられている新年の神様です。この「とし」の語源は、穀物、稲、またはその実りを意味しています。だから歳神とは、稲の神、稲の実りをもたらす田の神ということです。家々では五穀豊穣を祈り、多くの実りが訪れるようにと歳神様をお祀りしたのです。
初日の出を見に行くのもまた、歳神様の降臨を拝むために行われていたものです。そして正月に門松やしめ飾り、鏡餅を飾ったりするのは、すべて歳神様をおもてなしするための準備です。門松はその家に入るための依り代として玄関に配置されます。そして床の間の鏡餅こそ、歳神様のご神体そのものになるのです。
歳神様にお供えした鏡餅を直来でいただくのが、鏡開きでありお雑煮であり、かき揚げ餅になります。そしてその供えものこそが「お節(せち)」であり、年神から与えられる魂として「お年玉」ということになります。むかしは、お金はなく御餅をお年玉として子どもたちに配っていたように思います。節目にはお米のお力をおかりするためにお餅を食べていたのです。
このようになんとなく続けられている正月に目を向けると、なぜこの正月を行うのかの本当の理由が観えてきます。私たちが生きながらえてきたのは、お米を食べてきたからです。そのお米に対して感謝の心で慎み暮らし新しい一年の初心を定めてまた暮らしを積み重ねて充実させていく。
自然と共に歩みながらその恩恵に感謝し、その恩恵の御蔭様で生きていくことの大切さを思い返すための節目でもあったのです。大切な習慣が意味を失い、場合によっては違う意味で用いられ商売に活用されていくのは残念なことです。
子どもたちのためにも、むかしからの伝統を今の時代でも温故知新して伝承しながら大切なものをつなぎ譲り遺していきたいと思います。
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毎年思うことではありますが、年が変わると清々しさを感じるのは、歳神様が幸せを運んで来てくださるからなのだと感じました。今年もあと少しだと思うと早いものです。日々の積み重ねが今日に至っているわけですが、年が変わろる間際になるとどうも、一日一日が妙に貴重に感じます。新たな一年を迎えられるよう、今年になすべきことは、しっかり行っていきたいと思います。
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田舎の「お正月の準備」は結構大変です。それでも、年々、忙しさに追われバタバタして、後手後手になっていきます。結局、それは「意味」が分かっていないからでしょう。「意義」を見失ってしまったからでしょう。仕事が優先になり、自分たちの都合ばかりを優先して、本来の「感謝と祈り」を忘れていっていることとを確認しておかねばなりません。
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むかしの田んぼでも、収穫の際や新嘗祭でお米をいただき、あのような体験を味わうと、そもそもの行事との関わりがかわってくるように思います。日本人の生き方に深く根づいているお米やお餅から物事を観ていくとまた違うものが感じられるのかもしれません。体験から心で感じたものをまた大切にしながら新しい年を迎える準備をしていきたいと思います。