居心地がよい場所というものがあります。そこにいくと自分らしくあるがままの自分で居られるという場所です。人それぞれにその居心地がよい場所というものを持っています。
ある人は、自宅の部屋であったり、ある人は故郷の思い出の場所であったり、ある人は誰かと一緒にいるときであったり、またある人は自分が所属するコミュニティであったり、それぞれです。
しかしこの居心地がよいというのは、自分自身を知るうえでとても大切なことのように思うのです。なぜか気持ちが安らぐや気分が落ち着くというのは、自分の居場所として自分が素直に出せているということ。その逆に、自分を偽り我慢して自分を出さずに抑え込んでいるところは居心地が悪いということになります。
自分が無理をしている人がいると、その場所は居心地が悪くなっていきます。無理をしていない人が増えれば増えるほど居心地はよくなります。居心地のよさは、みんなが無理をしない環境があるということです。そのためには自分がまず先に無理をするのをやめてみる必要があります。無理をして我慢をして自分を誤魔化していたら、気が付けばもっとも自分がその環境を居心地が悪いものにしているのかもしれません。
なぜ自分らしくいられないのか、なぜ無理をするのか、それは他人からの評価を過度に気にしたり、失敗を過剰に怖がったり、不安や不信から心配ばかりで保身ばかりを気にするからかもしれません。しかしそれが回りまわって自分自身が居心地が悪い場所にしていくのです。
居心地の善さは、まず自分自身が心を落ち着ける必要があります。自分のままでいてもいいと自分自身が安心すること、このままでいい、あるがままでいいと自分自身を認めること、そして同時に周囲のあるがままも認めること。お互いに認め合うことができるのなら寛容な心で許し合うことができます。自分ができないことを周りがやることに嫉妬したり、自分ができないと思われないように虚勢を張ってみても現実は苦しみばかりが襲ってくるだけです。優秀かどうかばかりを気にして、能力ばかりを査定するような自意識を持っていたら緊張状態が続くばかりで頑張る悪循環に陥り頑なになるから笑顔はなくなり、周りの笑顔も次第に奪っていきます。優秀さを目指すばかりの人間たちがみんな無理をして頑張る職場に笑顔はありません。
自分からいつも笑っている人は、優秀さではなく仕合せが基準になっていますから自分自身が楽しいだけでなく周りも同時に気楽にしていきます。気楽さというのは、頑固さとは逆ですから何があっても丸ごと善いことであると信じ切るといった全体性に対する楽観性のようなものです。
居心地のよさは、まさにこのように全体に見守られていると実感しながらきっと大丈夫だとそれぞれが信じて歩んでいくことのようにも思います。むかしの日本の信仰のように、八百万の神々が共に歩んでいるのだからと安心するような境地です。それは決して否定排除ではなく、尊重と共存関係が大前提であったの自明の理です。
子どもたちが安心して自分の居場所をそれぞれの場所で創造できるよう、素直な自分のままでいられる環境を創造していきたいと思います。
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誰もが穏やかに安心した中で働くことを望んでいても、我慢しないといけない環境下がブラック企業と言われるような、社会問題に繋がっているのだと感じます。ブラック企業と調べると出てくる様々な実態は、働くというよりは働かさせられているばかりです。学校卒業後も母校のことを誇って、あちこちで話すのとでは大違いです。社会問題は個人の変化だけでは限界があると思いますが、同時に自分自身を変えて、社会を変えていく必要も同時にあるのだと感じます。
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「居心地がいい」ところでは、自分らしくいられ、安心して自己を発揮することができます。逆に「居心地が悪い」ところでは、我慢をし無理をすることになるでしょう。この「居心地がいい」ところというのは、どこかにあるというよりは、「その場を居心地よくする」努力も必要でしょう。そのためには、能力比較を一旦やめ、周りの人たちを居心地よくしてあげる工夫を重ねることが大事かもしれません。
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居心地がいいとは、それぞれが内省している状態というようなお話があったかと思います。それはお互いがお互いを思い合い調律し合っている状態をいうようにも思え、自分を素直に出すというのを勘違いし自制のない状態でただ感情を吐き出すのは違うように感じます。それぞれに自分というものは相手にとっての人的環境だからこそ、まずは自らを整えて相手を認め赦せる状態を維持しておきたいと思います。