昨年末に御餅つきをして歳神様に祀っていた鏡餅の鏡開きを行いました。一昨年は、カビが御餅の中までひどく生えて食べることができなかったため、今年ははじめから色々と工夫しました。
たとえば、御餅に焼酎を塗りこんだり、粒炭を御餅と御餅の隙間に入れたり、ワサビを御餅の近くに置いたり、また日ごろは玄関の神棚の近くの温度が上がらないような場所に置き、お祝いの時だけ床の間に出したりと歳神様の依り代としての鏡餅をずっと意識しながら工夫しました。
御蔭様で今年は一切カビも発生せず、いい具合に乾燥も進み綺麗なままのお姿で鏡開きを行うことができました。
この鏡開きとはお正月の間ずっと歳神様がいらっしゃる松の内の間は鏡餅としてお祀りしておりますが松の内が過ぎたらさげて歳神様を遠方へとお見送りします。その際、歳神の依り代であった鏡餅には歳神様の魂が宿っておられる鏡餅を食べることでその力を授けてもらい一年間の無病息災を祈念したのです。歳神様にお供えした鏡餅を家族で一緒に食べることではじめてこの行事は滞りなく実施されたことになるのです。
もともとは鏡開きは武家から始まった行事なので、鏡餅に刃物を使うことは切腹を連想させるのでよくないとされました。そこで手か木槌などで割ることになりましたがこの「割る」という表現も縁起が悪いとされ末広がりを意味する「開く」を使って「鏡開き」というようになったといいます。
今回はしめ縄づくりで用いられている古い木槌を使い御餅を打ち開きました。なかなか硬くて開けませんでしたから、力いっぱい何度も何度も打ち開いていくうちに細かく分かれていきました。
健康や幸福を祈り、お米のもつ力をみんなで感じてながらその力を分け合い頂くことの有難さを改めて感じました。
私にとっては新しいことを開くことを決意する貴重な一日になりました。
この日を忘れずに、新たな道を開いていきたいと思います。
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鏡開きと言葉としては前々から聞いていましたが、不思議だなと改めて感じます。勾玉や剣ではなく、鏡を形取り、鏡餅とし、お米が何より尊いものであったのだとその謂れや願いから感じます。お米を育て、搗いてお供えをして開いてと一連があればこそですが、買って焼いて食べるでは、そのプロセスがまるで見えません。餅搗き大会とこの時期、よく見掛けますが本来そういうものでないこともお米の収穫を味わうと異なることを感じます。お米中心の暮らしをしてきていたことを今改めて感じます。
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行事(神事)には、それぞれ「流れ」あるいは「ストーリー」というものがあります。いまでは、その一部を行事として楽しんでいることがよくありますが、やはり、「意味があること」はきちんと知っておきたいものです。「祈り」から「感謝」まで、その流れを意識し、しっかり務めたいものです。
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以前、職人さんが聴福庵について、他は部分しか出来ないけれどここは全てが揃っている、というようなお話をされていたとお聴きしました。鏡開きなどもその意味を知り体験することは出来ても、それはまだまだ部分であり江戸以前の人々の暮らしの中にあったこれらの行事はどれだけ意味が深かっただろうと感じます。純粋に当時の暮らしを当時のままに丸ごと味わってみたい、そんな風に思います。