好奇心を磨き上げる

本質を究めていくためには、物事を深めていく力が必要になります。それは根を深掘るということに似ていて、一体この根はどこから来ているものなのかを自覚することです。

そのためには、どんな物事にも好奇心をもって「なぜ」ということに正対して努力を続けていくしかありません。このなぜの深堀りが自分を知ることになり、この自分を知ることがさらになぜを深掘ることになるからです。

明治の思想家に、高山樗牛がいます。この方がこういう言葉を遺しています。

「己の立てるところを深く掘れ。そこに必ず泉あらむ。」

意訳ですが、「今、自分の立っているところを深く掘り下げよ、するとそこから滾々といのちの泉が湧きだしてくるから」と言います。

毎日生きているうちに、世間のルールや常識、そして勝手に言い聞かせてさも正当な理由ばかりを取り繕い自分がなぜそれをやろうとしたかという初心や動機を忘れて周囲に合わせて自分を忙殺させていくのが人間です。しかしそういう日々を送れば好奇心の泉は枯れていくものです。本来、自分の好きだったことが次第に好きではなくなるのは自分の好きを仕上げていくために必要な好奇心と努力、言い換えれば深堀りを怠っているからのように思います。

なんでも顕れた出来事を、なぜ自分はこれをやりたいのだろうかと深めればすべてがある根につながっていることに気づくことができるからです。周囲から見て一見しておかしなことをしているように観えていたとしても、本人は一貫して一つの真実に近づくために深めているからです。

私はよく周囲からも変人やオタクなどと言われます。そして時には、自分勝手や多動、アスペルガーなどと呼ばれます。確かに、時間を惜しんで何でも深め、すぐに行動し好奇心があるものを徹底して勉強し、真心が必要なところに自分を運び、そしてまた調べて深堀りとあまりにもその範囲が多岐に及ぶため余計にそういわれるのかもしれません。

しかしその根底には、いつも祈りや願いがあり子どものことを忘れたことは一度としてありません。私にとっての子どもの定義は、世の中の一般の人とは違うようです。その子どもの定義が異なる人からすれば、私のやっていることは子どもとは何の関係のないものに観えるのかもしれません。

実際には、世の中が定義する子どもとは他に、自分が幼い頃から育ってきた自分の中に子どもがあるはずです。世間の言う子どもは、目に見えるあの小さい子ども、大人と対比したものでしょう。しかし子どもは誰にしろその人の中に子どもはあるはずです。その子どもを子どもとした場合、子ども第一義という理念のカタチは観えてくるはずです。

子どもはとても純粋で、世の中のことを本気で憂い、人類を本気で愛し、真心のままです。その子どもが辿り着きたいと思っているところ、根っこにあるところに到達したいというのは好奇心が導いていくのです。

高山樗牛の言葉です。

「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」

子どもたちが豊かに仕合せに暮らしていける世の中のために、自分に正直に自然体になれるように真摯に挑戦を楽しみまだ観ぬ深淵を学び直し好奇心を磨き上げていきたいと思います。

  1. コメント

    さいしょは4本つづいて2本さいごは3本これなんだ?というなぞなぞがありました。ハイハイから二足歩行、最後は杖つきもとに戻っていくとのことですが、ご年配になって良くも悪くも子どものようになっていくというのは、子ども心の最後の発露なのかもしれません。人それぞれの純粋なものを守っていけるような働きを大事にしていきたいと思います。

  2. コメント

    よく例に挙げるレゴは、見聞きしたものを自分なりに解釈して街にしたり、乗り物にしたり、人を登場させたり再現をしていたのだと感じます。思ったことを形にしていくことは、今も変わらず私にとって興味を深めていくことに近いのだと感じています。そのままでは何も変わりませんが、一つ動けば何が変わるということは、「己の立てるところを深く掘れ。」に通ずるものを思います。レゴで遊んでいたような感覚を大事にしていきたいと思います。

  3. コメント

    徳には「明徳」と「玄徳」があり、「明徳は幹や枝葉」「玄徳は根」で、その現れ方も、そして伸びる方向も違うと言われます。「明徳」をほんとうに知るためには、「玄徳」を究めることが必要でしょう。内にあって自分の本質を決めるもの、それを着実に養い続けたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です