人は何かに新しく挑戦しようとするとき、避けては通れない試練と向き合うことがあります。知らないからこそ何でもできることもありますが、知らないからこそそれ相応の試練が用意されているのです。
先にわかっていればと悔やまれることも、やってみなければわからずやっていく中で失敗を通して学んでいきその体験を次に活かすことができるのです。成長の実感や人生の充実も常に挑戦し続けているからこそ得られるものです。
しかしその時に受ける精神的ダメージや苦痛は大きく、眠れない夜を何度も過ごし食べ物も一切喉を通らず、激しい頭痛や吐き気、倦怠感など心身共に強烈な影響を受けてしまいます。もちろん新しい挑戦する気持ちの中で知らないのだから悪気もなく、善意でやっていたとしても知識や経験の浅さから誰かに迷惑をかけてしまえばそれだけ自分の思いやりが足らなかったと反省も深くなります。
通常ならそこで諦めて辞めてしまったり、もう無理だと逃げたりするのでしょうがそれ以上に未来に希望を持っているのであればその経験を糧にして成長するために前進するしかありません。物事には良い面と同時に悪い面が発生しますから、どれだけ善い方を意識し、物事を転じていくかですべてを福に換えていくことができるからです。
そのためには一つの体験の咀嚼を丁寧に味わい、その体験を自分の人生のすべての経験に加味していく必要があります。学問が深まっていくというのは、単なる知識が増えていきそれが明瞭になることではなく泥臭い生々しい体験の中で深く反省しそれが知識から智慧に転換されたときに深まっていきます。
学問を深めるというのは、人格を高めることであるのは学び方=生き方であるからなのでしょう。
人間は転んでしまうのは仕方がありません、上手く歩けないヨチヨチ歩きの子どもから始まり何度も何度もこけては立ち上がり歩くのが上手くなっていきます。コケたら痛くて情けなくて何回も涙しますが、それでも歩きたいと立ち上がりまた歩くのは子どもが成長したいと心根から思っているからです。
子どもたちは、転んでも立ち上がりまた歩くのはそれが人間の人生を示しています。子どもの姿から見て学ぶことは、転んでも立ち上がることでしょう。そしてその子どもの親や大人から学ぶことは見守ることです。子ども同士は成長し合いたいと願っていますから時としてヨチヨチ歩きの子ども同士が歩いていて道でぶつかってお互いに怪我をしてもそれはお互い様です。そして転んだら手を取り合って助け合うのは御蔭様です。それを見守り間にいるの思いやりや優しさといった慈悲です。
自分の正論を振りかざして思い込みで相手を裁くよりも、自分が未熟だったと深く反省し明日への挑戦の糧にしていきたいと思います。
コメント
「試練」とは「試し」の一種です。いまの生き方の何かが足りなくて、そこを試されているのでしょう。したがって、「何が何でも立ち上がること」がその「試し」対する自分の姿勢です。こけることを恐れるのではなく、立ち上がる意欲をなくすこと、試しと知りつつ負けてしまう弱さを怖れたいと思います。その瞬間を見守られているのだということを再認識しておきたいと思います。
コメント
ここ最近、企画物をした時に「試みた」という言葉を遣いました。試しとしてやってみたら、その先は試しではなくなるのだと感じています。挑戦をする前のワンステップではありますが、石橋を叩いてばかりでは橋を渡っているとも言えません。試しなしも、いつも本番の気概も大事にしていきたいと思います。
コメント
どのような些細な出来事も、それを試練だと思うことが出来れば挑戦し甲斐も感じられるのかもしれません。ある先生が珍しい厄介な事例に対して「こういう方がワクワクして燃えるんです」と仰っていましたが、受け取り方次第で不安や苦しさにもなれば楽しさにもなることを忘れないようにしたいと思います。