人間は忙しくなると心をおざなりにしていくものです。言い換えれば、現実の速度に心が着いてこれないと心が消えてしまい妄念や妄想ばかりが増えていくものです。この心とは初心のことで、「何のために」ということを思い出せなくなっていくという具合です。
この「何のために」ということがしっかりしている人は、あまり日々の現象に対して道から外れるようなことが少なく実践を着実に積み重ねて本来の目的に向かって歩んでいきます。
しかしこの道に迷いが出てくると、不安や恐怖などが押し寄せて心が落ち着いて行動することができなくなってきます。感情ばかりに左右され、感情に呑まれていたら心は消えて忙しい状態になるからです。心が忙しくならない方法の一つが、そもそも何のためにはじめたのかと常に初心に帰っていくことのように思います。
また道を共に歩んでいる同志や仲間に心を見守ってもらうことも方法の一つです。自分のことを過信せず、いつも命綱を信頼できる人に預けながら崖っぷちを歩んでいくように導いてくれる人に自分の心を委ねながら歩む具合です。この関係は、自分自身との信頼関係の築き方と同じです。自己の調和やバランスもこの信頼関係が結ばれて実現していくように思います。
「何のために」という動機は、すべての根源ですからそれさえ忘れなければ心は自分から離れることはありません。道に迷う時には深呼吸をして、一体何のために自分はこれをやるのかと改めて自分自身を省みて目的を忘れていなかったと思い出せば心は寄り添ってきます。
私の場合は現実的に方向音痴で都会や屋内ではすぐに道に迷います。道に迷うということを自覚していますから、迷ったらすぐに人に聴くようにしています。周りはみんな親切な方ばかりでいつも間違いを指摘してくれます。時折、よくわからない指摘もありますがわからなければまた他の人に聴き直します。まあ、よく間違いますから自覚していることで救われているのかもしれません。
自分が間違っているのではないかと自覚することは、人の話をちゃんと聴いているだろうかと反省することと同じです。自分の解釈で独善的に間違っていないと固執するときほど、大きな間違いをする可能性があります。間違っていないはず、あっているはずとこの「はず」がつくとき、人が自分を過信し傲慢さが膨らんでいくからです。
姿勢として、何か間違っていませんかと人生の答え合わせをし続けて最終的に合っているということが道に生かされたということかもしれません。導師は常に一心一体です。
大切な人が道に迷ったとき、手助けできる距離で見守れるように自分自身を襟を正して精進を地道に続けていきたいと思います。
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何のためにというのは、何をするにも共通で大切な問いだと感じています。迷った時にこの問いを掛ければ、立ち止まりまた見えてくるものがあり、一筋の光は希望にもなります。迷った時にというよりは、日々自分自身に問いかけていきたいと思います。
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遅々として進まなくて「焦る」ときも、道に迷いやすくなります。そういうときは、いつの間にか「独り」になって仲間を見失うようです。この「焦り」のなかに、自分の傲慢さも見えます。「道に迷ったら素直に聴いてみる」という原点を忘れないようにしたいと思います。
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道に迷ってはいけないではなく、迷っても戻ることが出来るようになることが大切であることを感じます。修理修繕の学びにもありましたが、迷ったら終わりは使い捨ての意識、迷いながら正していくことで近づいていくことが本当に迷わないことなのかもしれません。先生方の中にも忙しさの声は多いですが、修理修繕の心で共に歩んでいきたいと思います。