人間にはそれぞれ多様な個性があるように多様な偏りがあるものです。この偏りとは辞書でひけば「 1 真中からずれて、一方に寄る。「針路が北に―」 2 正しい状態からずれて、不公平・不均衡になる。偏する。」と書かれます。
この偏という字は、よく「偏見」という言い方もされますがこの偏の字の語源はどちらか片方の門から人が文字を見るという具合で成り立っています。
この偏見というものは、偏った見方をすることであり中正ではないときに使われます。この中正とは、本来は私がよく使う一円観で言う中庸・中心でありみんなで丸ごと受け容れた時の状態のことです。一人一人の意見をよく聴いて、みんなでその意見を聴いて判断していくのであればバランスが取れた中正的なものに近づいていくのです。
しかし今の世間での偏見は、何か一つの価値観だけで縛りこみ、その価値観に合わない人を裁くような偏見を用いられているように思います。偏りがある人を差別したり、排除したり、排斥したり、変人奇人だと決めつけて仲間外れにしたりすることは決して偏りを活かし合う本来の人類社會の在り方ではありません。
みんな似たような価値観を持たされ、みんな同じでないといけないような圧迫した環境を与えられれば偏りがある人である人ほどその価値観で生きていくことはできなくなります。つまり生きづらくなっていくのです。多様性を認め合う社會は、お互いの偏りを活かし合う社會です。
だからこそ、偏見で裁くのではなく偏見でみんなと折り合いをつけて丸ごと認め合おうという寛容さで社會を創造していくことが全体バランスを保ちながら人類が共存共栄をしていく仕組みになるのです。
この全体バランスとは何か、それはみんなが偏っていることがいいという状態です。人間は集団を創る生き物だからこそ、色々な人たちがいてその人たちがお互いにどう活かし合おうかと考えてここまで人類を発展させてきました。
一部の人たちにだけ都合が良い集団は、活かし合う集団ではないことはわかります。場合によっては活かし合うではなく殺し合うような集団や社会に育っていくかもしれません。
その人の持ち味を活かすか殺すかは、その集団が何を目指しているか、どのような社會を築こうとしているかに関わってきます。人本主義なのか拝金主義なのか、それもまた組織や集団の意識が決めます。人を大切にする組織、人を大切にする集団であればまず傾聴をし共感をし受容して感謝し合うような関係を築いていく必要があります。
そのためには、常識に照らして自分の意見が正しいと教え込むような環境ではなく、それぞれに一理あってみんな正しいといった一円和合する環境を用意し人類を見守り続けていくことだと私は思います。
一円和合の環境を子どもたちの現場に少しでも伝道していけるよう、社業を高めていきたいと思います。
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映画を観終わった後、いつもネットでその映画の感想を調べます。他の人はどう感じたかを見るのも自分にとって楽しみの一つでもあります。社内木鶏と同じように、同じ記事を読んでどう感じたかという点は似ていますが、やはり異なるのは自分自身はどうだったろうかと内省する点だと感じています。それぞれの意見や感じ方を尊重し、またそれを受けて自分自身内省し、本当は何かということを日頃から何においても考えていきたいと思います。
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「伝える、言い聞かせる、誘導する」というこちらが主体となる「話す」力と、「引き出す、活かす、尊重する」という相手が主体となるための「聴く」力。どちらも大事ではありますが、相手を深く知りその価値観を受け入れ協力していくためには、傾聴・共感・受容・感謝の実践を積んでいくことが必要になると感じます。それがそのまま子どもを観る眼差しにもなるからこそ、ただ仲良く楽しくなどという浅い意識ではなく子どもたちの為に臨んでいきたいと思います。
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「裁く」思想の背景には、「正邪」や「正誤」、あるいは「合否」といった価値観があるのでしょう。そして、その価値観は、「嫉妬心」や「虚栄心」という歪んだ心に起因しているのかもしれません。しかし、この価値観で生きている限り、「裁かれる自分」に苦しむことになります。自他の存在の認識を根本から変えないといけないようです。