昨年より本格的に会社で「むかしのお米」というものに手掛けています。これは一般的な農業をするのではなく、むかしはどのようにお米作りをしていたかを現代に甦生させるものです。
ここでの「むかし」とは何であったかを少し書いてみようと思います。
このむかしとは、過去から今までどうであったかという意味でむかしという言葉を用います。つまりは今はむかしの連続であって今であるという意味です。日本の成り立ちは神話によると天地開闢以来、親祖が流水で禊をしてこの地を豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)にすると初心を掲げ、子孫代々繁栄と発展を現代まで実践されてきました。この豊葦原瑞穂国は辞書には「神意をもって豊かに稲が実り栄える国」という意味であると記されています。
むかしのお米とは、この神事として国造りを稲に倣い、稲に学び、稲を実らせるように行われたお米作りによってできたお米のことを言うのです。
ではむかしのお米作りは何かと言えば、日本的精神や伝統が入ったものであるのは自明の理です。そのむかしのお米作りの原点は、神話の中に籠められています。たとえば、八百万の神々と相談をしながら取り組むことや、流水に澄まし清め流すことで認め合うことや、協力協働し思いやりお互いに働くことなどがむかしから日本人としての精神性の原点を磨くことになっているのです。
現代では、そういう日本的なお米作りではなく単に収量を増やし評価が高まるようなお米作りが主流になっています。ここに日本人のお米作りの原点を思い出すこともなくなってきているように思います。これでは何のためにお米作りで国を造ろうとしたのかという初代の理念のチカラをお借りすることもできなくなります。私たち子孫は、先祖が立てた理念やビジョンによって方向性を確認し、かつて生存し命を懸けた方々の伝統の積み重ねによって得た力を継承して今を生きているのです。
その私たちが伝統を継がなかったら悲しむのは親祖から命がけで取り組んできてくださったご先祖様たちであるのは自分に置き換えればすぐにわかります。私がむかしのお米作りにこだわるのはそのような理由からなのです。
むかしのお米作りをしていくというのは、謙虚に生き方を見直して自分を修正し続けるということかもしれません。
引き続き子どもたちにご先祖様の遺志や力が伝承されていくように、むかしのお米を大切に育てて繋いでいきたいと思います。
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「文化」には、その民族の歴史を貫く「精神」というものがあります。それは「文化の背骨」とも言われます。この「精神」を具現化するために、いろいろな形式が生み出されてきましたが、いつの間にか、「背骨」を欠いた形式のみの「やり方」に変わってしまっています。時代は変わっても、「日本文化の香り」をどれだけ残せるか?!それが私たちの仕事でもあります。
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これまで主食として食べてきたお米に自ら携わるようになり、祖父が農家でしたのでどんな想いで育てていたのだろうと、今になってる考えるようになりました。一緒に田んぼに出て作業をしたことはありませんでしたが、米を育て家族を養ってきたと思うと、それがあって今の自分があることを感じます。15年前に亡くなった祖父がそうしてたように、その前もその前もきっと、米を育ててたと思うと、そこに家族の繋がりを感じます。
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「いきものいっぱい耕さない田んぼ」というのは、今の時代だからこそその意味が深まっているように思います。いきものいっぱいとは沢山のいのちが生かし活かされ合っている姿であり、それは和を貴しとする我が国のあるべき姿だったようにも思えます。かつて日本は子どもの楽園だと言われていたようですが、好循環の中で育まれるお米と同じように子どもたちを見守っていたのかもしれません。大本にあった思いを感じていきたいと思います。