人間が利便性を追求してなんでも思い通りになることが前提になっていくと、不測の事態や思い通りにならないことがあると途端に脆弱になっていくものです。つまり簡単便利になればなるほど、それに反比例して人間が弱く脆くなっていくということです。
本来、自然界で存在していれば思い通りになることなどほとんどなく自分自身が環境に合わせて変わっていくしかありません。自然から遠ざかり自分の思い通りなることが上手くいっていると思い込み、周りが変わらないことをいくら怒ってもそれは不自然ですから自然の流れからは淘汰されてしまうものです。
不安の元が何なのか、本当に間違っているのは何かを見極めるには自分自身が自然と向き合い、時の流れや人の関係、どの場所にいるのかなど客観的に自分を見つめて冷静に判断していくしかりません。何が自然かと見つめるためには客観的に事実を理解していくことからはじまります。
客観的に物事が観えるようになってくると、人は次は楽観的に物事を感じれるようになります。この楽観性は、あれば人は笑顔になり融通無碍にどのような変化が出てきてもそれを味わい、臨機応変に自分を発揮していくことができます。
人が主観だけになり悲観的になるのは、己に負けてしまうからです。己が不快な感情になるのは、自分を喜ばせていないからであり、周囲もまたその波長によって喜べなくなっていくのです。自分で自分を苦しめると周りも苦しみます。その逆に一緒に喜び合うためには、自分が先に自分自身を愉快にして周囲もまたその愉快によって共に楽観的な環境を創造していくかありません。
人間に知性が求められるのは、自己の発揮に己を律し、己を立てる必要が出てくるからです。自己を確立していくためには、自分に打ち克ち、自分の初心や動機を忘れずにどれだけ今に尽力したかということに命を懸けなければなりません。そのためには、人工的な利便性を追求した便利な頭脳ではなく、自然を感じて直観的に不便であっても手間暇をかけて丹精を籠めて自己改善に取り組んでいくという誠が必要になります。怒りや苦しみに耐え、つらいことを乗り越えてどのような生き物も成長していきます。
最後に渋沢栄一の言葉です。
「どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない。」
天の時、地の利、人の和。
そのどれも変化には欠かせません、それをすべて壊してまで自分の思い通りにしたとしてそれで一体何が残るのか。悲しいのは、自分に負けたという現実だけです。だからこそ、真実を見極め、本質をとらえ、初心を忘れずに理念を実践していく。そのうえで、間違い失敗してもまた立ち上がって何度もチャレンジしていく。これらを続ける中に人生の歓びがあり、仲間との出会いがあり、仕合せのご縁があります。耐えることの後に希望があり、忍ぶことのあとに歓びがあるのです。
成長することを与えられた機縁に感謝し、自分を超えていきたいと思います。
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「天の時、地の利、人の和」はいずれも「調和」です。「調和」を失っているときは、がんばっても、結局うまくいきません。それは、「我」や「私」が出過ぎているのでしょう。「調和」を乱すと、自分の生きられる範囲はどんどん狭くなります。「全体の調和を見計らって、自分もその調和のなかに生きる」ということを学ぶ必要があるようです。
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強きものや本物は残り、弱きもの偽物は淘汰されると思うと、そこに自然の摂理を感じます。自然界がそうであるように人の世も同じであり、淘汰されまた新たなものが生まれるのも自然なことなのだと感じます。
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誰か自分よりも大変な人がいる、辛い人がいる、弱い立場の人がいると感じたならば、たとえ苦しくとも悔しくとも静かにそれを内に秘めたままにただただ静かに耐え忍ぶというのもまた生き方なのだと思います。誰は見ていなくとも天は見てくださっているものと、清らかな心のままで生きたいと思います。