祈年祭について昨日から深めていますが、「とし」は稲のことで「祭」は政を行うことでですが、祈りとは何かということです。
神道の「神祗令義解」には、「謂ふ、祈は猶ほ祷の如し、歳災作らず、時令を順度ならしめむと欲して、即ち神祗官に於て祭る、故に祈年と曰ふ、」と書かれています。ここで祈るのことを「祷」のことだと定義されています。この祷は「禱」のことで、示す辺に寿ですが、寿は「言を祝う」が由来です。祝うは福ですから、福が到来することを意味します。そして古語日本語の「いのる」は「い」(斎) + 「のる」(宣る)が語源です。
ここから私が直観するのは、いのちのままでいること。いのちのままに言うことに従うこと、信じるままに生きること、安心して自分の役目を天意に従い全うすることという意味であろうと思います。
なぜ先に祈りからはじまるのかは、自分自身の中にすでに備わっているものを大切にして取り組んでいけば、その結果として顕れたものが幸福になるという智慧を示しているからではないかと私は思います。
そして祝詞も、祝福と言葉の詩からできた語です。先人たちや先祖たちが、同じように取り組んできたことで素晴らしいご縁に導かれた祝福に出会ったこと。同じように福が訪れますよという安心の声を伝承しています。
道に迷いそうなときは、その物事を福に感じられなくなるときです。なんでも福に転じる人は、自分のいのちの声に従うことを自覚し、天命に従い使命を全うすることが祝福そのものになることを体現し続けます。
私たちにとっての祈りは、宇宙自然の道理のままに暮らしていこうとした親祖からの「生き方の伝承」です。四季や四時の循環において、田の神さまが稲を見守り一緒に育てて暮らしを助けてくださっている。私たちはこの日本の風土に守られながら、稲を育てて寿命を永らえていこうとした民族。その民族の生き方が祈りの中に宿っているのです。
祈年祭はその確かな初心を風化しないように、ずっと稲と田と人々によって大切に受け継がれてきました。戦後に、それまでの日本人の精神文化や暮らしの大元が解体されて急速に意識が西洋化していきましたがそれでも親祖の初心が消えることは決してありません。永遠の祈りは、いつも私たちのいのちと一体になって受け継がれています。
引き続き祈年祭を甦生しながら、子どもたちにその意味を伝承していきたいと思います。
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「人事を尽くして天命を待つ」というときは、「祈り」は最後かもしれませんが、「天命に従って人事を尽くす」というときは、「祈り」から入るでしょう。そこには、大いなる「見守り」を信じると同時に、人間的努力の「誓い」があります。それは、また暮らしの「一体感」でもあるでしょう。「安心感」のなかで素直に努力できる生き方をしたいものです。
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完全パン食だった給食が、ある時からご飯が出てきた時の歓びは非常に大きかったことを覚えています。園でも先生方が食を大事にされており、食べることは一番の伝承だと感じます。種と同じく文化もまた緩やかな品種改良のような変化はいいですが、遺伝子組み換えのような書き換えでは別物になるように思います。芯にあるものを感じていきたいと思います。