日本は古来より、八百万の神々といってすべてのものには神々が宿っていると信じられてきました。そして様々なものに接するのに神様に接するかのように敬い祀ってきたのは歴史を見れば明らかです。
例えば、日本には珍しい神社がいくかあります。天気予報などの気象神社、他にも航空安全の飛行神社、頭と神の神社の御髪神社、電気、電波の神様を祀った雷電宮などがあります。
日本人は形のないものであっても、そこに何かしらの意味を持たせます。それがご縁であったり、勿体ないという言葉であったり、縁起担ぎであったりと、暮らしの様々な場面でそれが顕れます。
つまり無意識にも、私たちは目には見えないものを観てそれを感じて共に生きているのです。
不思議ですが、包丁を使うとき包丁を大切に扱っているとその包丁で切れるものは切り口が傷みませんし食事も美味しくなります。私はむかしのたたら製鉄の伝統包丁を研ぐのですが、研いだあとの切れ味や磨かれた美しさには感動するばかりです。
すっと切れるその切り口が料理をおいしくし、使い手の心を澄ませていきます。そこにはまるで包丁の神様が宿っているかのようです。
そのように私たちは宿っていると感じながら接すること、まるで依り代のように存在するそのいのちに寄り添いそのものと一体になる感覚があることでそのものの存在の有難さと同時にそのものの持ち味や魅力を尊敬しているのです。
人や道具を活かすというのは、相手を神様のように敬い接するということに似ています。人間が人間として力を発揮するのには、モラル(徳)が必要です。その徳をもった人が徳をもって接することで、そのものの徳が磨かれ引き出されていくのです。
神社にお祀りするその道具や意味たちもまた、モラルや徳の顕現を示すものです。どのような姿勢でそのものに取り組むか、その道具でどのように生きるか。自分たちの生き方を見つめ、正し、本来のあるべきように気づかせるのがこれらの神社の神徳なのかもしれません。
引き続き、子どもたちに先人の智慧を伝承できるようにご縁を味わいながら本来の意味や価値を深めてみたいと思います。
コメント
日本人は、昔から「敬の心」を持っています。それは「憧れ」として自分の努力や成長を支え、「畏怖」として「謙虚さ」を忘れない智慧でもありました。「善い関係」には、必ずお互いに「敬の心」がありますが、それはモノに対する姿勢にも現れています。この「基本姿勢」を忘れないようにしたいと思います。