日本人はまじめすぎる民族であるといわれます。特に、過労死に言えるように頑張りすぎてなくなる人が多く、また無理をして精神疾患や病気になる人も多く、さらには責任感が強すぎて自分でいのちを断つ人も多いといいます。
このまじめすぎるようになったのは、現在の社会の状況や教育環境によって行われているようにも思います。例えば、何かの事件があればマスコミなどで徹底的に叩く雰囲気であったり、頑張っている人が一人で責任を持たされ頑張ったからできたと無理をすることが評価されていたりもします。
頑張りすぎるというのは、我慢をして無理をして頑張っている状態の事です。同様にまじめすぎるというのも、我慢をして無理をしてまじめに取り組んでいる状態の事です。
この我慢をして無理をするというのは何か、自分の本心を偽り自分に正しいことを言い聞かせる状態の事です。疲れているのに、さぼってはいけないと言い聞かせ、やりたくないのに、やらねばならないと言い聞かせ、そしていい人にならなければと自分を無理し、罪悪感や自己犠牲感、申し訳ないと自分自身がダメなところを自傷し謝罪したりすることで本心を無視し本心を偽り無理をするのです。アインシュタインは「どうして自分を責めるんですか? 他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」といいます。自分で先に責めることが無理をし我慢をするということでしょう。周りの社會を信頼していきていける居心地のよさがあればそれもできるのでしょうが、今の日本はそうではないようにも感じます。
人間は、自分の本心に正直であることである意味でのストレスはかかりません。自分が本心からやろうと思ったことや、本心で取り組んでいることは無理すぎることもなく頑張りすぎることがありません。自分に正直になるには、周りからどう評価されるか、どう見られたいなどをあまり意識しすぎないことがいいように思います。つまり自由に自分らしく生きていく仕合せを味わっていくことができます。しかし今の日本社会では、そういった自由が許されにくい雰囲気がありますからなかなか安心して無理をせずに頑張らない状態を維持することは難しいこともあるように思います。自由と自律をはき違えてしまうと今度は、他人を不自由にしてしまいかえって周囲の抑圧を強くしてしまいます。
そうやって空気を読めと言い聞かせたり、なんでもやってはいけないと自分で自分を抑圧することでより居心地が悪くなります。居心地をよくするためには、自分自身に正直なり、自分自身を開放して、同時にみんなを尊重し安心して仕合せになる社會を意識して創造していく必要があります。つまり「みんながお互いを尊重し合えるような多様性を保障された社會」を築いていけば無理も頑張りもなくなっていくのです。
その人のままでいいとその人の本心が尊重されれば、みんなで協力し合っていける優しく緩いつながりが大切にされ誰かだけで無理に頑張る状態にならないように配慮し合えるように思います。いい人になれなければ、まじめにならなければ、失敗しない人にならなければ、迷惑をかけないようにしなければ、等々教え込まれたきたことが「過ぎる」状態にしたのかもしれません。
子どもたちも学校と塾と宿題の忙しい日々で、大人たちによってまじめすぎることが強要されて心がついてこれなくて苦しんでいることが多いように思います。大人たちの息苦しい働き方が子どもたちに伝わっていきます。
尊重し合い許し合い認め合う社會づくりを足元から取り組んでいきたいと思います。
コメント
真面目で責任感の強い人日本人が、この豊かな日本を創ってきました。それは「人間」としての真面目さであり「生き方」としての」責任感の強さです。しかし「まじめ過ぎ」たり「責任感が強過ぎ」たり「がんばり過ぎ」たりするのは、その延長ではなく、まったく別ものの「愛されない不安」が原因です。「ここまでやれば認めてあげる、それができるなら仲間に入れてあげる」という「条件付きの愛と評価」を得るために必死になって無理をするのでしょう。自他ともに、まず、この「条件つきの仲間意識」を変える必要があるのではないでしょうか。