自然に沿って田んぼをつくり、稲を育てていると私たちの暮らしの原点みたいなものが観えてきます。それは自然との共生をしながら、手入れを怠らないということです。自然はそのままにしていたら野生が勝りすべての人工的なものを呑み込んでいくものです。
福岡の農園も、もしも2年放っておけば畑は雑草だらけになり木々が生えてはもとの荒れ地に戻ってしまいます。定期的に手入れをしては草刈りをし、作物を育てるから人との共生がはじまり私たちもその中で暮らしを営むことができます。
他にも古民家も同じで、自然物でできていますから手入れをしなければ次第に傷んでいきます。掃除をして庭の草取りをし木々の剪定をし、風を通して光を入れてあげなければ次第にまた野生に呑み込まれて壊れていきます。
つまり私たちは自然の一部として、その中に人工的なものを入れていきますから手入れをしなければ自然と人が共生していかないのです。
都会では、極力自然を排除して人工的なものの中に少しだけ自然が入るようにしているようですがそれも見せかけで手入れをしなければ野生がまさりあっという間に傷んでいきます。
地方の小さな町々や村々の都市も、そこに住む人々が手入れを怠ればアッという間に傷んでいきます。つまり人間が暮らすということは、必ず何らかの自然の中での手入れを実践するということです。
現在は、楽をしてお金を払えばだれかがその手入れを仕事として取り組んでくれていたりします。しかし本来、暮らしとは、自分自らでその手入れを欠かさないことで自然との共生感を磨くことで調和を育んで持続可能な営みを続けてきました。
私たちが暮らしを優先するのは、自然との共生を忘れないためです。
これからの未来に、何を忘れてはならないか、そしてどうすれば自然と共に暮らしていたころの記憶を思い出すかはとても大切なテーマであるように思います。むかしの先祖たちが行っていた懐かしい暮らしこそ、私たちが今一度思い返す必要のある未来なのです。
引き続き、子どもたちのために暮らしを甦生しながら日々の豊かさを伝承していきたいと思います。
コメント
二宮尊徳翁は「天道と人道」と言われましたが、この「天道」というか「自然の力」の凄さは、「人道を怠る」とすぐにわかります。「天道」に休みはなく、小賢しい妥協はありませんから、「人道」はそれ相応の覚悟で臨まないと共生できません。但し、振り回されてもいけません。「自然」を師として、その「共生」を目指すところに、「人道」の学びもあるのでしょう。