暮らしの喜び 

以前、スイスやドイツ、オーストリアの田舎を旅したことがあります。そこには美しい景色の中で暮らす人々の姿もありました。その景観はまるで一体化しており、どこまでが人工物でどこまでが自然物かわからないほどでした。

日本にも、いくつかの里山ではむかしからの懐かしい風景が残っている場所があります。ここと同様に、暮らしの景観というものはその風土と一体になっている美しさがあるように思います。

現代は、風景や景観などは気にせずに自分の好きな建物を建てようとします。ある場所に行くと突然、派手な色の西洋建築風のものがあったり、田舎に都会的な建物があったり、風景や景観などは気にせずに自分の好きなようにしています。または、駐車場にしたり、倉庫にしたり、廃材置き場にしたりと、それも好き勝手です。

風景や景観が壊れても気にせずに、自分の都合ばかりを優先するうちに景観や風景の美しさが次第に消失していきます。

私たちは風景や景観というものの恩恵をたくさんいただいています。美しい景色の中に自分があるということの存在価値が自分の美しさも引き出していきます。先ほど紹介した海外の田舎の風景のように、自然と一体化して美しい建物がある場所はそれだけで懐かしさや落ち着いた安心感、その人々の暮らしの喜びが伝わってきて美しいさに見とれます。

この暮らしの喜びとは、風土に存在するだけで恩恵を与えられている仕合せに生きることです。その風景や景観の恩恵に感謝しながら暮らすからこそ、先人たちや風土人たちの家や建物はその風景や景観と一体になるものを建てるのです。そうすることでその風土の自然が循環し、穏やかに持続し、共生し合えるようにその土地の材料を活かし、その風土の循環がさらに調和し活性化するように暮らしを組み立てることができたのです。

この暮らしの「美しさ」というのは、そのようにお互いに恩恵を享受し合い利他を実践しながら生きる姿です。美しい暮らしとは、お互いに利他の実践をし徳を積みながら自然を美しみ、共生を愛し、貢献し合うことに仕合せを味わう日々を送ることだと私は思います。暮らしが消失し、暮らしの美しさが消えたのはなぜでしょうか。個々人が好き勝手に利己的に生きる姿の中が増えてきたことが原因ではないかと感じています。

日本人の本来の美しい暮らしを甦生することは、日本の風景を甦生させていくことです。そしてこの美しい暮らしの甦生には、この自然や風景や景観は欠かせません。自然の恩恵に気づき、自然を味わい、自然を大切に共に生きていく。子どもたちのためにも今、私ができるところから守り育んでいきたいと思います。

  1. コメント

    「故郷の風景」とは、自分の家の周りだけでなく、そこから見える景色全体です。その「全体のバランス」が美しい記憶のひとつでもあります。また、日本人は「借景」という智慧と豊かさも持っていました。その「全体の美しさ」こそが、みんなの財産でもありました。外国人から見ると「自分も日本人の風景の一部」であるように、「自分の暮らしのあり方もみんなの風土の一部である」ということを忘れないようにしないといけません。

  2. コメント

    「故郷の風景」とは、自分の家の周りだけでなく、そこから見える景色全体です。その「全体のバランス」が美しい記憶のひとつでもあります。また、日本人は「借景」という智慧と豊かさも持っていました。その「全体の美しさ」こそが、みんなの財産でもありました。外国人から見ると「自分も日本人の風景の一部」であるように、「自分の暮らしのあり方もみんなの風土の一部である」ということを忘れないようにしないといけません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です