先日、聴福庵で鮎の炭火焼きを行いました。時間をかけてじっくりと弱火を通して備長炭で焼き上げる鮎は格別で薫りも味も見事でした。一緒に食べた方々もみな、こんなに鮎は美味しいのかと喜ばれました。
そもそもこの弱火でじっくりという料理方法は、古代からある調理法の一つです。むかしは、縄文土器の中に食べ物を入れそれを蒸し焼きにしたり、煮込んだりして料理をしていました。
大切な食材や食料を焦がしたりダメにしたりすることのないように、「時間をかけて」じっくりと弱火で調理したように思います。
この弱火というものは、素材の旨味や持ち味を発揮する仕組みとしてはとても効果があるように思います。備長炭でも、弱くなってきた炭火で調理すると深くて繊細な味わいが出てきます。これは水も同じく、井戸水をじっくりと弱火で沸かすとなんとも言えない円やかさが出てきます。
現代では「じっくりと時間をかける」ということを排除した料理法ばかりが増えてきました。本来は、「時間をかける」というものもまた「美味しい」につながる大切な要素であったはずです。
しかし時間をかけずに美味しいというものが優先されると、料理法は強火で早くになってしまいます。もしくは調味料や味付けばかりのノウハウが増える一方で舌先三寸を誤魔化して美味しそうな料理を美味しいものであると認識させたりもします。
私たちが美味しいと感じるのは、五感で味わうときです。目でみて、においを嗅いで、触感を味わいという具合にすべての器官をフル稼働させています。しかし今は時間がないからと、見た目ばかりにこだわり目で食べているような具合です。そのうち、カロリー計算された栄養ドリンクや簡易的な補助食品ばかりをとるようになってきました。
時間をかけないことが最良とされている価値観の中では、本来の美味しいものは出会いにくいのかもしれません。食材が少ないからこそ、食料が足りないからこそ、また旬が短いからこそ、私たちはそれを大切に美味しくいただくことで食欲だけを満たすのではなく心の豊かさもまた充たしていました。
満足するというのは、この心と五感と材料全体を豊かに味わうときに得られそれを美味しいとしたのでしょう。
改めて今の時代でも、本物の美味しいを子どもたちと分かち合えるように丁寧に暮らしを紡いでいきたいと思います。
コメント
「美味しいもの」をいただくと、ほんとうに幸せだなと思います。その美味しさの要因には、もちろん素材やその旬もありますが、その調理法や盛り付け、あるいは一緒に食べる人たちもあります。美味しそうな匂いの中、楽しみに待つことも美味しさでしょう。そう考えると、その背景というか、その過程は重要な要因です。「結果さえそこそこであればいい」という発想では辿り着けない世界であることを、もう一度認識し直す必要があるでしょう。