自然農の田んぼでお米作りをしていますが、お米の育つ力を信じてどれくらい手を貸せばいいのかに気づくのに何年もかかりました。具体的には、こちらが育てるのではなく、相手だけが育つのではなく、如何に一緒に育っていくか。こういう視点が持てるようになるのにとても時間が必要だったように思います。
育て方や育ち方などのマニュアルは多く出ていますが、「一緒に育つ」というものの考え方はまだ少ないように思います。
本来、生き物は信頼しあい信用し合うことで「共に育つ」ものです。
共に育つからこそ、はじめてどこまで手を貸せばいいかわかり、どこまで見守ればいいかもわかってきます。たとえ、出来が悪くても一緒に育ちあってきた時間はかけがえのないものです。
現在の価値観は結果重視ですから、結果や成果が悪いとすべてを台無しのように扱うものです。しかし実際は不出来であろうが、見た目が悪かろうが、一緒にいのちを燃やし、一緒にご縁を結び、一緒に思い出を共有し合った仲間であり、家族である事実は変わることはありません。
本当の意味での仕合せや喜び、豊かさはこの共育なかにこそあります。つまり古来からの教育とは共育ということでしょう。
自然の仕組みを先生にして私は教育を語ります。私の教育の考え方は、大学で論文を提出して博士になったわけでもなく、世間から評価や名誉をいただいているわけではありません。しかし自然がそうなっているものを学ぶのは、古来から人類の学び方の原型であり、その原点を基準にして今の生き方に反映させていくのが学問の醍醐味だと私は思っています。
教育者ではないのに教育者を語る不届き物かもしれませんが、実際に生きものが「育つ」という真理は、教育者が育てたのではないと私は思うのです。つまり一緒に育ったのです。その育つものを育てたものがもしもあるとするのならそれは「場」が育てたのであって教育者が育てたのではないのです。
そんなことは自然農で稲をつくってみれば必ずわかります。
引き続き、保育の仕事をするからこそ本質が何か、自然がどうなっているのかを子どもたちの傍で伝承していきたいと思います。
コメント
「育てる」というと「自分」に注意がいき、「育つ」というと「相手」に注意がいきます。しかし、「両者の接点」に注意を持っていくと「両者の動きの質がうんと良くなる」と言われます。両者の接点である「場」に、両者の注意が安定するとき、「一緒に育つ」という新しい関係ができるのではないでしょうか。