日本の味というものがあります。それを和食とも言います。和食とは何か、その定義はそれぞれにあるように思います。私も数寄で料理をしますが、日本の和食料理の原点、源流というものがあると思っています。
その一つにとても大切だと私が感じるものは、全体と調和するものということがあります。他を邪魔せずにお互いに支え合う、縁の下の力持ちのような存在の味わいです。
これはかつての稲作の伝統行事であったり、神道の祭祀であったり、歴史の日本の先人たちが徳の高い生き方をしている中に観ることができます。全体調和しながらもオリジナルの個性がある。他を受容しながらも、自立している。そしてそれが美しく豊かで多様な味わいを出していることです。
たとえば、料理であれば水、そして火を中心にして料理します。その水もその土地の自然の湧き出たものがよく、火もまた炭火や小さな枝木などの弱火がいいのは当然です。
そのうえで、昆布や鰹節などを用いてじっくりと出汁をとります。主食は玄米の深い味わいを炭火と鉄の鍋と竈で炊くことで蒸していきます。天然の天干塩もまた、それぞれの素材の深い味わいを引き立てます。
まさにこの辺こそ日本料理、和食の源流であり原点であると私は感じています。
だからこそ本物の素材であることは、私は子どもたちに料理を伝えるために何よりも大切な要素であると思っているのです。本物の水、本物の火、本物の鰹節、本物の昆布、時間と手間暇、古来からの自然調和する製法にこだわったもので料理することの大切さを伝承したいのです。
特に幼児期の子どもの感覚は原始的なものを持っています。この原始的なときこそ、原点や源流を味わうことで和食の伝統が伝承されていくのです。私はもともと料理人の肩書とか持っていませんし、資格もありません。
しかし何のために料理をするのかといえば、そこに子ども第一義の理念の実践があるからです。それぞれに目的が明確であれば、具体的な手段はすべて理念を実現するための方法論の一つとして表現されていきます。
これから鰹節を削り手作りの発酵味噌を焼き茄子と一緒につくりますが、日本人の味わいを言葉ではなく真心で伝承していきたいと思います。
コメント
次々と「家電製品」が開発されて、家事労働はみるみるうちに一変しました。お母さんたちの家事負担は一気に解消され喜ばれたものです。そのなかでは、「手間暇がかかる」ことはすべて「遅れている」ことのように扱われましたが、その辺りの思想が未熟だったかもしれません。豊かな未来を考えるにあたっては、「便利」という思想を見直す必要があるでしょう。