私たちは本来どのような存在であったかということを突き詰めていくと、次第に根源的なものに出会うものです。その根源的なものとは、限りなく自然に近い存在に気づくということです。
根源が分かるというのは簡単にいえば、自然か不自然かがわかるということです。しかし今はこの何が自然かをわかる人は非常に少なくなっているように思います。その理由は、歴史を省みず、自然を尊敬せず、都市型の便利な環境と、幼いころからの教育や日々のニュースなどの知識で思考が停止してしまうことで自立が阻害されることなどもあるように思います。
刷り込みというものは、最初に刷り込まれるとそれが不自然であることにも気づかなくなっていきます。自分が刷り込まれていたことに気づくには、本物の自然に触れ、本物が何かを実体験で学ぶ必要があります。
私の場合は、自然農から自然のことを学びました。何年も肥料も農薬も一切使わない中で、耕さず、肥料農薬を用いず、草や虫を敵にせず、と一つ一つを実践していくうちに自然というものがどのようなものであったかを体感していきました。自然を学ぶには自然が一番で、自分のそれまでの考え方や生き方などがすべて覆りました。それは自然というよりも野生といっていいかもしれません。しかし野生の本能は、自然と直結しており、野生はいのちを磨き合う環境において発揮されますから自ら自然に身を投じていかなければ自然は近づいてくることもありません。この時の自然は、自然界の共生や貢献の仕組みを自然から学び直したという意味の自然です。
さらに私は鞍馬寺で、天にお任せするという生き方を知り何が人間本来の運命に対して自然であるのかということを学ぶ機会を得ました。他にも、私が自然を学んだものは古民家甦生、玄米食、炭の活用、微生物、見守る保育の子どもたち、伝統工芸の伝承、初心の継承などすべてのことを「一つ一つ深め突き詰める」中で何が根源であったか、何が自然であったかにたくさん出会ったのです。
自分の経験から実感したもっとも大切なことは、深めることや突き詰めること、自然から学び続けること、そしてそれを実践するには素直であること、感謝を忘れないこと、つまり「人間としての根源を磨き続ける」ことなのです。
人間の根源とは、日々に感謝し仕合せであることがはじまりです。そして足るを知り、今が最も仕合せである人は根源治癒を得られるものです。赤ちゃんや子どもたち、自然界のいのちのように私たちは根源から大きな愛情をかけられすくすくと健やかに育っていきます。そこには敵対関係や比較関係などもなく、ただいのちが安らかに明るく素直に存在しているだけです。
人間を磨き続けることが根源を磨くことであり、人間として人格を高めていくことが治癒を発揮させていくことです。それは手法ではなく、まさに生き方の改善です。生き方を換えていくことは、初心や動機に対して真摯に今を砥石にして磨き続ける覚悟で生きると決めることです。
まさに保育の道は子どもたちの生きる姿、生きる力、その自立の姿から学び直す実践です。自らの人間としての根を掘り下げ、原点を磨き続け、未来の子どもたちが安心して自分らしく生きていけるように今を生きる自分たちからさらなる自然体に近づいていきたいと思います。
コメント
「何に学ぶか?!」ということはとても大事なことです。「書に学ぶ」「人に学ぶ」などありますが、二宮尊徳や松下幸之助という方は「天地自然に学び」ました。そして、「何を学んだのか?!」それは「道理」です。この「天の道、地の理」がわかれば、それを辿ることができます。そこに「初め」を知り、「そもそも」に気づいて、「物の本末」「事の終始」を悟ることができます。「その本乱れて、末治まるものはあらず」です。