甦生の本質

私は現在、古民家をはじめ、あらゆるものを「甦生」という取り組みをしていますがこれは価値がないと世の中が捨てたものを拾い、それを磨いて見立て直し新しいいのちと役割を持たせるということになります。

日本的な概念としてこれは「有難い」や「勿体ない」などと同様に、私たちの先祖が大切にしてきた文化の一つです。

現在は、まだまだ活かせるものをその用途がなくなれば価値がないと切り捨ててすぐに廃棄してしまいます。本来、もっと活用できるものを活用しようともせず役に立たないと決めつければ、いくら資源が豊富にあっても使われなければ無価値になりますから無価値にしたのはその時代の人たちの生き方の問題です。

二宮尊徳に、甦生について遺された文章があります。

「世の中には、人がまだ捨ててはいないが、活用していないものが多い。これらをよく拾い集めて、国家を再興する資本とすれば、多くの人を助け、まだ余りが出る。これが私が小さい頃から行ってきた道である。 」

二宮尊徳は、田圃の端の誰も使わないような土地に菜種を植え、菜種油をとりその油の灯で勉強に励んだといいます。他にも捨ててあった余り苗を拾い植えてそれによって別の収入を得て蓄財していきました。世の中が要らないと捨てたほんの小さなものを敢えて拾い、それを積み上げて価値にして活用したのです。

彼が行ったのは、私の取り組む「甦生」と同じ概念であったのは間違いありません。私の世の中が捨てたものを蘇られ、息を吹き込み、磨き上げ新しいいのちとしてそれを活かす。これは単に便利な道具を別の使い方にしてさらに便利にするわけではありません。経済合理性や効率を優先するための智慧ではなく、徳を活かし、徳に報いるといういのちの在り方、そして生き方の仕組みなのです。

シンプルですが、人が見捨てるようなものの中に価値を見出し、それを経世済民の甦生の柱としてそれを積み上げ、磨き上げ、災害に備え、蓄財をし、家を再興する。まさに、徳を使った循環の仕組みを上手に生かした本質的なコンサルティングを行っており、単に分析や評価だけをするのではなく文字通り「甦らせる」というコンサルティングを行ったのです。

私は、本業が「場道」のコンサルティングですからまさに「甦生」するかどうかが私自身の中心軸であり、根源的な成果の基準になっています。だからこそ、二宮尊徳のように「復興」にこだわり、甦生にいのちを懸けて実践をするのです。

今はまさに捨てることが当たり前、捨てることこそが価値があると信じさせられている大量消費の時代、甦生などというとあまりにも荒唐無稽な可笑しなことをやっているように思われますが、これが徳を循環し、人間社會を本当の意味で仁徳溢れる世の中にするための唯一の方法なのです。

先人の生き方から、本来どうあるべきか、子どもたちのために見つめ直したいと思います。

  1. コメント

    「甦生」とは「報徳」そのものです。「徳に報いる」ためには「徳」が見えなければなりませんが、いつの間にか、私たちは、「徳に気づく力」を失っているようです。その理由のひとつに、自分でものを生み出さず「消費のみの生き方」をしていることが考えられます。多くの人の思いと努力によってものが生み出され、形づくられていく、その過程を知らないのです。「ものを生み出す過程に加わる」そんな暮らしが欠けているのではないでしょうか。

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