人間は心にゆとりがなくなってくると、不足やないものねだりが始まるものです。すでにあるものを観る心境には、ゆとりや余裕が必要です。心が荒めば荒むほど、人間は忙しくなります。
忙しくなるのは、心のゆとりを見失っているからです。
では、心のゆとりとは何かということです。それは「信じる」ということに通じているようにも思います。またその逆は、「荒む」ということです。思い通りにならない執着や、自分勝手得手勝手にできないことへの不満、そういうものが積もり積もっていけばいくほどに心は荒み余裕は失われていきます。
心の余裕とは、融通無碍であり穏やかな気持ちで信じて待っている心境です。そして何があっても物事の善い面を観て、善くないところは改善していこうとする素直な心が働いています。
人間、素直でないから心が荒むのであり、素直な人は心穏やかです。この素直さというものは、その前提にすべてのご縁を丸ごと信じて待つという実践が行われています。なぜなら心の余裕やゆとりとは、素直な心と一体であるからです。
何があってもすべては意味があると信じて、今を磨き、自分を高め、機会を活かす人は運に恵まれていきます。運に恵まれるから、運に任せて最善を盡していきます。善いも悪いもなく、まさに一円観です。
心が荒むというのは、道徳的な社會が荒廃するということです。二宮尊徳が活躍した時代もまた、財政がひっ迫し、貧困や飢餓で村々が廃村していきました。この廃村は、決して経済だけが荒んだのではありません。先に心が荒み、次第に経済も荒廃していったのです。
現代の日本の状況に非常に類似していると感じるのは私だけでしょうか。
だからこそ、先人の智慧や仕組みを学び、この時代も同様に心田開発をしていく必要があるように私は思います。二宮尊徳は幕府の仕事を引き受ける際に、弟からの誉のお祝いの言葉にこう厳しく返答します。
「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種、すなわち仁義礼智というものを培養して、この善種を収穫して、又まき返しまき返して、国家に善種をまきひろめることにあるのだ。ところが今度の命今は土地の荒蕪の開拓なのだから『私の本願にたがうことはそなたも承知のはずではないか。それなのに遠くから来て、この命令があったのを祝うとは何ごとだ」と。
そもそも何のために二宮尊徳は、報徳仕法を実践し人心の荒廃を甦生させていったのか。その兄弟間のやり取りからも、その本質や本懐が観えてきます。
どの時代も、人類のリーダーは同じ理想を見つめていきます。私も、自分に与えられた使命に生きていきたいと思います。
コメント
「心には同時二つのことが入らない」といいます。すなわち、「不安」でいっぱいのときは、「信」は入る余地がなく、「不満」が覆っているときは、「感謝」する余裕がありません。またさらに、「不安」が「不安な事態」を引き寄せ、「不信」がすべての「信の道」を塞ぐというようなことも起きます。したがって、起きている現象に振り回されずに、まず一人ひとりの「心田」を開発することが必要です。「経済の荒廃は、心の荒廃に由る」という「本末」を間違わないようにしなければなりません。