人は話を聴くことによって、本当のことがわかります。しかしその聴くには、素直な心がなければ本当の意味で聴いているわけではないことはすぐにわかります。自分の都合の悪いことを聴きたくないという気持ちがどこかにあれば、聴き方もまた自分の都合に合わせて聴いているからです。
また自分が聴きたいことを想いながら聴いていたらそのことしか聴こうとしていないからです。無意識ですが、人間は自分にとってどうかという聴き方しかしないものです。それを素直に聴くには、色々な聴く力が必要になります。
例えば、対立するものを超えて調和しようとして聴くことだったり、すべての真実をあるがままに受け容れるときに聴くことだったり、利害損得を超えて偉大なことを教えていただいているという気持ちで聴くことであったり、耳が痛いことを言ってくださってでも大切なことを学ばせてもらっていると聴くことであったりと、人は心が素直で謙虚でなければ聴く力は磨かれていきません。
人の話が聴けるというのは、それだけ人間的に生き方を磨いて清らかな心を高めてきた人だからこそ素直に聴けるということでもあります。
自分の想い通りにならないことを聴きたくないから人は視野が狭くなってきます。視野が狭くなればなるほどに人の話が素直に聴くことができません。視野が狭いというのは、それだけ自分しか見えていない状態に陥っているということです。盲目に自分の信じることだけで他の一切は遮断するとなってしまえば、周囲の方々に多大な迷惑をかけてしまいます。
本来は、みんなで迷惑をかけ合って生きるのが人間ですからお互いにそれを理解し合い協力し助け合うことで視野は広がっていくものです。そもそも視野が狭いという言葉があっても、聴野が狭いという言葉はありません。
聴く力というものは、謙虚で低姿勢、周囲を尊重する心が磨かれて伸びていくチカラです。自分の方を高いところにおき、自分の考えが正しいと決めつけ、他人の話に素直に耳を傾けなくなっているという時こそが視野をさらに狭め、自分のことばかりを優先して省みることがなくなっているとも言えます。
省みるというのは、反省するということです。視野が狭くなる時はあっても、自分は周囲に感謝してきたか、みんなのお陰様を如何にいただいてきたか、自分のことを許し導いてくださったかと思っていけば、素直な心を少しずつ取り戻していき他人の話に耳を傾けることができるようになります。
私が大切にしている生き方の一つに、「聴福人」がありますがこれは一円観という二宮尊徳の生き方を参考にして編み出したもので、対立するすべてを一つの円の中に受け容れて聴くという境地のことです。
自分を中心にではなく、万物一体全の中であるがままの素直な心で受け容れてみること。そして、素直な心でよく反省しその意味や示唆するところを謙虚に学び続けることです。
人間の本当の失敗は、誰の意見にも耳を傾けず独善的になって自分のみが正しいと決めつけて周囲への思いやりを忘れてしまうことかもしれません。人間は失敗し学ぶからこそ、よく反省し、自分が視野が狭くなっていないかと自己チェックをするためにも、初心や理念を拠り所にして自反慎独を積み重ねていくしかありません。
聴くことで心を磨き、子どもたちの未来に尽力していきたいと思います。
コメント
自分が何かを伝えようとするとき、言葉で「説明」しようとすると「伝えたいものから離れてしまう」というもどかしさをよく経験します。これを逆の立場でみると、相手の「言葉」だけでは、相手の言いたいことはわからない、ということになるかもしれません。さらに、そこに自分の「思想や嗜好、分別や判断、あるいは習慣」などを挟み込みながら聞いていては、何も聴いていないのと同じです。そういう意味では、「聴くこと」は「見ること」の何十倍も難しいことです。「話をきく」のではなく、「実態を感じる」聴き方を身につけないといけないようです。