近くBAに日本の伝統的なサウナを甦生するために、東大寺を不屈の精神で再建した重源上人の遺した石風呂を深めています。昨日は、山口県で数か所石風呂を見学し、体験し、構造を分析してきました。
先日、フィンランドのスモークサウナで体験したような同じ柔らかい温かさがありましたが800年前の人々の安らぎとつながった感覚があり有難く不思議な気持ちを味わうことができました。
この重源上人は、日本大百科全書によれば「鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房(しゅんじょうぼう)と号する。紀季重(きのすえしげ)の子で、重定(しげさだ)と称した。1133年(長承2)醍醐寺(だいごじ)で出家し、密教を学ぶ。また高野山(こうやさん)に登り、法然(ほうねん)(源空)に就いて浄土教を研究するとともに、大峯(おおみね)、熊野、御嶽(おんたけ)、葛城(かつらぎ)など深山幽谷を跋渉(ばっしょう)して修行した。1167年(仁安2)入宋(にっそう)、栄西(えいさい)とともに天台山に登り、浄土五祖像を請来(しょうらい)する。1181年(養和1)造東大寺大勧進(ぞうとうだいじだいかんじん)職となり、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と号し、広く諸国を勧化(かんげ)して、建永(けんえい)元年6月5日に86歳で没するまで、平氏焼討ち後の東大寺復興の造営にあたった。その間、再三にわたり入宋するとともに、1191年(建久2)には法然を東大寺に招き、南都諸宗の学匠に浄土三部経の講義を開いたという。また周防(すおう)(山口県)阿弥陀寺、播磨(はりま)(兵庫県)浄土寺、伊賀(三重県)新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立するとともに、備前(びぜん)(岡山県)の船坂山を開き、播磨の魚住泊(うおずみのとまり)の修築、摂津(大阪府)渡辺橋・長柄(ながら)橋などの架橋、河内(かわち)(大阪府)狭山(さやま)池の改修、湯屋(ゆや)の勧進を行うなど、西大寺(さいだいじ)の叡尊(えいぞん)、極楽寺(ごくらくじ)の忍性(にんしょう)に劣らず社会救済事業に尽くした。」と紹介されています。
社会救済事業に生涯を懸けて取り組み、その遺徳が800年後の私たちにまで届いているのですから如何に偉大な思想を持った人物であったかがここからわかります。
私が今回、取り組むサウナにはこの重源上人の理念に共感して取り組んいます。この当時は、建設に従事する人たちが心穏やかに大仏殿を復興できるように人々の労をねぎらい、病や傷を癒す目的もあって湯屋をつくったとあります。
そもそも何のために復興するのか、復興とは何かと理念や本質を追求し決して結果だけを目的に歩んでいたのではないことがわかります。不屈の精神で取り組んでいくなかで、現実の矛盾や境界線を超えて、人々がお互いに心の平安を持つことができることを信じて具体的な形を示していきました。
「人々の心を癒し、そして穢れを祓う。」
私が今回、取り組んでいる復古起新のサウナもまたこの理念によって執り行う覚悟が決まりました。本日は、100年前の鉄の羽釜が神奈川から届き、今週は樽を佐賀まで見に行きます。
病気が増えに増えて、こんなに人々が病に傾いた現状を重源上人が生きていたらどう感じたでしょうか。その当時の予防医学は今よりも洗練されていたことを私は重源上人の石風呂で実感しました。
時代の過渡期に、人々の心を癒し穢れを祓う大湯屋建造に覚悟で取り組んでいきたいと思います。
コメント
歴史的な社会事業には、実に多くの人々の多年にわたる尽力がありますが、その背景には、「世を救わん」として立ち上がった人があり、必ずしも賛同を得られない中、「我一人でも」と命をかけて取り組まれたその篤き念いがあります。いつの時代もそういう方々の命懸けの発心と人々の協力があって、この国が護られ続けていることを有難く思います。