自然淘汰という言葉があります。これは辞書では「時の経過とともに、優良なものが生き残り、劣悪なものがひとりでに滅びていくこと」と記されます。長い歴史の中で生物の生存競争において少しでも有利な形質をもつものが生存して子孫を残し適しないものは滅びることとも言われます。
この淘汰という字を分解すると、「淘」は「水洗いをして不純物を取り除く」「より分ける」こと、そして「汰」は「不要のものを流し去る」「良いものと悪いものをより分ける」を意味します。
つまり洗い流して不純物を取り除いていくということでもあります。
自然界は生きものに偉大な慈愛を注ぎますが、同時に偉大な厳格さも与えます。つまり成長し続けること、進化し続けること、改善し続けること、手放し続けること、努力し続けること、等々、いのちを全身全霊で活かしきるように働きかけてきます。
自然農の畑に出て自然の一部に入り込めば、様々な生き物たちの楽園で私も一緒にいのちを全力で活かしきろうとします。元氣なものは生き残り、弱っているものは駆逐されていきます。
元氣でいるためには、自然の中で自分自身を常にブラッシュアップして共存共栄しながら適応していくしかありません。それは言い換えれば、自分自身が自然に照らして淘汰し続けなければならないのです。
自分が淘汰するのと淘汰されるという意味ではその主体が異なります。自ら淘汰していくということは、自然の変化と共に順応していくことです。かつて長い歴史の中で私たちが見たこともなかったような生物がたくさんあったと思います。時にそれは淘汰され、今はみかけることもなくなったものもあります。
私たちは自然の篩に常にかけられ、その隙間を落ちるものと残るものに分かれます。いい種を残そう、適応する種を使おうと、常に自然は濾過し続けているのです。
地球は水の惑星ですから、この淘汰や濾過はいのちの作用そのものです。
自然から離れず共生し、自然の意思に従って応じて順じて改善していきたいと思います。
コメント
ダーウィンは「最も強い者でも最も賢い者でもなく、変化する者だけが生き残る」と言いましたが、この「変化する」というところに「主体性」が求められるのでしょう。そして、「いい変化をする」には、その背景に「素直さ」が必要です。自然の意思に従って「過ぎた欲、身勝手なこだわり」を捨て、天意に則って「人としての努力、絶えざる精進」ができるかどうか?!そこが厳格な眼で見られているのでしょう。