すべてのものには価値というものがあります。その価値は、目には見えないものから目に見えるものまであります。例えば、ダイヤモンドなどの価値は市場で評価されている価値であることを知っている人には価値があります。しかし何も知らない人には特別な価値を感じないかもしれません。
私たちは知らず知らずに価値というものの判断を市場に委ねているのが分かります。こうやって価値を売買して、価値を交換することで経済は動かされているとも言えます。何が価値がもっともあるのか、それを金融の方で眺めれば世の中が何に執り付かれてうごめいているのかがわかります。
それに戦争でもひとたび発生すれば、武器が売れ、その統治国になるであろう国に資源が高騰していきます。石油なども、何かあるたびに価格が乱降下していきますがそのたびに株価も変わります。
この価値というものの歪さは、市場価値が誰かによって操作されていくところです。いつまでもそのものの価値を保つために、あらゆる操作をしてそれを維持しようとする。資本家や資本主義の持つ、中央集権の仕組みは世の中の価値を標準化していきました。
そのために、市場と切り離されていたむかしからの暮らしを維持していた農村も次第に巻き込まれその価値を押し付けられていきます。市場に参加するように促されていくのです。
一度、参加してしまえば市場価値合戦がはじまりますから市場にとって価値があるものしか製造しなくなっていきます。農家などわかりやすく、暮らしのために多種多様に作っていたものたちがある一つの果物だけを大量につくる農家に変身します。それは市場価値があるもののみを扱おうとするからです。価値がこうやって塗り替えられてしまえば、その周辺の村々に住む人たちの価値観も入れ替えられてしまいます。
何が価値があるのか。
この問いは、本来その人その人によって異なるものです。しかしその自分の価値を生きるよりも、周囲の価値を優先して生きていかなければ無価値になるとさえ思い込み、自分の価値の最大化を怠ることでより市場原理によって価値は中央集権化していきます。
そんなことをこのまま続けていたら、多様性は劣化していき本来の真実の価値が痩せ細り価値があることに気づかない人が増えていくだけです。
すべてのものに価値があるということを私たちの先祖は、八百万の神々という生き方によって守ってきました。そこにはゴミなどもなく、すべてがいのちのある神様として同等の価値を維持していきました。
私はこれを分散型と定義して呼びます、分散型の技術の哲学は私はこの八百万の思想から定義しているのです。ブロックチェーンの仕組みも私はこれと同じものであると確信しています。
これからは本物の価値とは何かをみんなで本気で議論する時代に入ります、そしてその価値をどうやってみんなで最大化していくか。それは生産性や効率性を最大化するのではなく、価値を如何に最大化するかということ。言い換えるのなら、真の豊かさをみんなで生きて幸福な世の中を今一度見直していこうとする時代です。
子どもたちが安心して、自分のあるがままを認められ信じ見守れるような世の中をここから実現していきたいと思います。
コメント
「曲がったキューリ」は市場価値がありません。しかし、食卓に上れば変わらない価値があります。ただ、キューリが嫌いな人にとってはまたその価値は変わってくるでしょう。この世に存在するものにムダなもの、意味のないものはないとも言いますが、その「存在価値」と人が認める「効用価値」には、まだまだギャップがあるようです。「価値の有無」の前に、もっと私たちの「その徳に気づく感性」を高める必要があるのでは愛でしょうか。