先日、一円対話の中で孤立や孤独についての話がありました。コロナで今までなんとなく曖昧にしていた人間関係や社会問題もこういうことがあると露呈してくるものです。改めて、孤立や孤独とは何か、考えてみることにします。
そもそもこの孤立や孤独は、使っている人によってその定義も意味も異なります。また集団の中で使われるときは大勢の方と少数の方でも使い方が異なります。つまり、この言葉は客観的に外側から使われるときと、内面的に主観的に使われるのではその意味が全く異なるということです。
例えば、自ら孤立や孤独といっても志を高くし、目的に向かって我が道を真摯に精進する人には孤立や孤独は自己研鑽のために必要な徳目でありそれは決して悪いことではありません。誰かに甘んじるのではなく、ひたすら道を追求する中で時には甘えず、時には助けてもらい自らの孤独や孤立を高めていくのです。どうしても誰にもわかってもらえないような次元の大きな志に生きるのなら、それはなかなか語り合える朋とも出会えません。しかし、みんなそのようにして偉大なことに挑戦していこうとしますからそれはそれで真摯に初心を省みて実践を積み重ねていくしかありません。孤独も孤立もそれは志を歩んでいる証拠だとも言えます。
しかし、これとは別に人間社會の中で人間関係を大切にしない人や思いやりが欠けている人は別の意味で孤立や孤独になっていきます。人間は一人では存在していませんから周囲への思いやりは常に必要です。困っている人に手を差し伸べたり、みんなが心地よく働けたり、人間関係や信頼関係が損なわれないように常に誠実で正直なかかわりをつくりつづけていく必要があります。それは決して見せかけの関係を創ればいいという意味ではありません。
畢竟、人間関係というのはまずは自分自身との関係性からすべてはじまります。自分への正直さや素直さ、自分をちゃんと大切にできる人、自分自身に対して誠実に生きている人が翻って他人へも同じように正直に素直に誠実にあることができるのです。
自分を粗末にしたり、自分の扱いを乱暴にしたり、自分に嘘をつき続けたり、自分を騙したり、自分との関係がちゃんと維持できなければどうしてもそこに孤立や孤独が発生してきます。まずは、もっとも身近にいる自分自身を大切に思いやる事。これは間違ってはいけないのは、別に自分勝手に自分のことばかりを優先すればいいというわけではありません。
自分を大切にするというのは、相手を大切にするよう自分も大切にし、自分を大切にするように相手も大切にするということです。もしも相手が自分だったらどうしたら喜ぶだろうか、自分がもしも相手だったらどのようなことに感謝するだろうかと、常に自他一体になった境地で人間関係を結んで丁寧にケアしていくのです。
人間は、自分がされなくないことを他人にしないというのがまず思いやりの原点です。そして自分がされて嬉しいことや仕合せなことを相手にも与えていくことで、自他ともに仕合せな心持になっていきます。
つまり「思いやり」とは、そういうことなのです。
「思いやり」がなくなれば、孤立と孤独は身近に常に存在して自分自身の間違いに気づくように語りかけてきます。そして思いやりが足りていけば次第に孤立や孤独は仕合せにつながっていることにも気づいていきます。そう考えてみると孤立感や孤独感は自他への思いやりの欠如への渇望感なのかもしれません。
みんな自分自身の心に素直に正直な人たちが、子どもたちが安心できる社会を創り上げてます。人間はもとは自然物ですから、自然の心は誰にも備わっています。それをある人は良知ともいい、ある人はまたそれを真心と呼びました。
真心の生き方をする人には、孤立や孤独というものがそもそも存在せずただ感謝のみの豊かな世界が広がっているように思います。みんなたった一人ではありますが、独りぼっちでは生きてはいけません。持ちつ持たれつ生きていくのですから、思いやりを持って日々を大切に過ごしていきたいと思います。
子どもたちに思いやりの徳を活かしあえるような社会にしていきたいと思います。
コメント
自分の志がなかなか伝わらなくて「孤独感」を味わうことがありますが、これは「人間関係を保ったまま」の独りであり、天やもう一人の自分と対話して動機の善なることを確認したりする時間としても必要な機会でしょう。一方の、自己中心的で我が強すぎて「孤立」してしまうケースは、人間関係が崩れており、一緒にいても繋がっていません。これは、もう一人の自分からも天からも離れてしまっているのでしょう。「繋がりの感覚」を見失わないようにしておく必要があるようです。