日本人は、先祖になることを特別なことのように大切にしてきた民族であったといいます。そもそも先祖になるというのは、元々の存在になるというように定義していたように思います。
人は生まれては必ず死にますが、生まれてすぐの子どもたちのような純粋無垢な姿から次第に色々な垢がついて自分というものの本体を忘れていくものです。それが死んでしまうことで成仏しまた純粋無垢な神様になります。
つまりは神様とは純粋無垢であり、あるがままの素直な姿、そしてそれが先祖だったという具合に定義しているようにも感じるのです。この純粋無垢な魂のことを和魂と呼んでいたように思います。生きていれば、色々な穢れが纏ってきます。その穢れは、執着でもありこの世での知識や思考などがそれになります。
そうなると、荒魂といってこの世の姿を映します。それを死後、取り除くのは子孫の供養や祈りによって祓われていき元の純粋無垢なものへと変化します。自分という個体と、先祖の一部という神様になった姿。神様が分かれたというのは、先祖が子孫になったということでもあります。
氏神様というのは、子孫の元の姿、先祖の姿ということになりそれがはじまりの姿ということになります。私たちは、はじまりの姿から分岐し続けて今の姿になっていますが元は同じです。
この元が同じであることを神様と呼び、人は死して神様になるというのは元の純粋無垢な姿になるという意味です。生きながらにして神と呼ばれるものたちは、純粋無垢な姿を現世でも実現させておりまるで先祖そのものような生き方を体現した方のことを言うように思います。
私は感覚的なタイプですが、深めるのが好きなので気が付くと生と死、神と先祖、そういうものがそもそも同一であり比較するものではなく前後し合っているような事実にばかり出会います。もとの姿は、みんな一つであり、二つの性質が混然一体になって和するのがいのちの本体というのはわかります。
先祖を大切にするのは、私たちの元の姿を大切にしていくということです。そして先祖になるというのは、また元の姿に回帰するということです。生と死とは常にそのことを自覚させるものであり、私たちは日々に先祖に祈ることで元になっていくのです。
この元になることが気であり、元氣になるというのは穢れが取り払われて元通りの純粋無垢な魂に回帰したということをいうのでしょう。元氣であるというのは、生きてときも死んでいるときも大切なことです。
いつまでも子孫たちが元氣でいられるように、先祖を大切にして恩に報いて祈り続けていきたいと思います。
コメント
「自分が先祖になる」という感覚はあまり意識したことがありませんが、先祖というかたちで残るのであれば、その責任は重大です。「消えてなくなる」ことと「いつまでも残る」ことの差はとても大きなものです。更にそれが「残す」となると、「別の意味」も加わってきます。死して後も迷い続けるようなことがないように、この今を元の姿に近いかたちで生きたいものです。