時代というものには転換期というものがあります。そして自然にも風向きがあり、海には潮目というものがあります。つまり分かれ目を指します。私たちは偉大な時の河の中を限られた人生を限られた範囲で生きています。
永遠や無限というもの、時が持つ大河には宇宙の天の川銀河のように悠久が流れています。その中でも、揺らぎというものがあり、少しの変化が大きな変化になり、変化の曲がり角というか、関のようなものがあります。
その時どき、私たちは行動を促され時代というものになります。
人間は、人間の時間を生きていますし意識もまた限られた範囲で物事を語り分析します。しかし私が言いたいのは、人間の意識を超えた存在が同時にこの世には存在しており、それが別の潮流をもっているのも事実です。
私たちが体験する小さなものは、それをどう受け取るかで偉大にもなります。ある人にとってはどうでもいいような些細な体験も、他のある人にとっては世の中が一変するような体験にもなったりします。
人の意識には、体験する密度や濃さがあり、限られた範囲で得られるものと、無限に得られるものがあります。つまりこのいのちには、二つの性質のものがあり、それは時の流れひとつとっても混然一体になっていることに気づくのです。
あくまで限定的なこの肉体的な存在に対して、無限にあるこの精神的な存在。私たちは日々に調和し、調整しながらもできることをできるところまで取り組みます。だからこそ大切なことは、如何に永遠を想いながら今を大切に生きるかということです。
子どもたちはこの先にも誕生してきます。そして私たちと同様に今を生きていく存在になります。私たちが先祖から譲られてきたものを子どもたちも譲られます。問題は何を譲るかということです、そしてそこには決して金銭的で物質的なものだけではなく「生き方」といった真実を譲る必要があるとも思うのです。
王道や本道、太古から続く道にはその生き方が譲られてきて文化として遺っています。子どもたちに確かな文化を継承してもらい、永遠の今を譲り渡していきたいと思います。
コメント
有限の肉体に永遠の生命が宿り生きるというのは、唯物的にみるとおかしな世界に見えるかもしれません。しかし、この唯物的な世界観では「今と永遠の接点」がありません。まずは、私たちがこの接点を見事に生き切って、「永遠の今を生きる姿」を遺していきたいものです。