老子にこういう言葉があります。
これは「大方は隅なく、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し、道は隠れて名なし。」(大方無隅 大器晩成 大音希声 大象無形 道隠無名)
直訳すると、「大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象には形がない。道とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、もともと名づけようがないものなのです。」となります
これは道を語る一文です。
偉大なものはこういうものであり、偉大だからこそそこに徳があるというのです。
この言葉は私の解釈ですが観方を換えれば、こうなります。
「もし道を学ぶのであれば、大方とはもっと大きな意味と深さがあることを知り分かった気になってはならぬ、そして本物になろうとするのなら時間がかかることを覚悟し根気をもって事に励み実力をつけ、真摯に研ぎ澄まし洗練された透明で鮮明になるまで磨き上げ、自他一体、全体善になるほどにすべての事と調和してそのものとなる。これが道であると。」
どんなことにも大切な意味があり、その意味はその先の偉大なものの一部であるという生き方。まさに道は徳に裏付けられて存在し、道を歩む人は必ず徳の存在に出会います。
私たちが捉えている宇宙と、老子が捉えている宇宙はまるで別物かもしれません。それは道には天の道と人の道があるというように、道を解釈する人と、解釈する前の道があるという言葉では語りつくせないものを表現しているように思います。
文字や言葉では表現できないものが必ずこの世には存在します。私はそれを「意味」と呼びます。意味がないものなどこの世には一切存在せず、意味があるから日々が発生してきます。真理を探究していく人は、意味を深めて意味をつなげて意味を生きる人たちです。
真実の深さというものは、この意味を辿る生き方、ご縁と共にあるひとたちがもっています。頭で考えてどうにもならないことがあるのは、そこには天の道、徳があるということでしょう。
「道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観んと欲し、常に有はもってその徼を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄のまた玄衆妙の門なり。
この玄妙こそ、私は徳の正体に近いと感じています。
私の歩む道は、遠大で偉大を志しています。そのことを自覚して、心の余裕を大切に日々の意味を紡いでいきたいと思います。
コメント
根のように外には見えないけれども内にあって大きな働きを持っている「玄徳」を養う方に重点を置いたのが老子の教えであり、一方、幹や枝葉、花のように外に現れる「明徳」を明らかにする方に重点を置いたのが孔子の教えであるといいます。この「見えない世界と見える世界の関係」の探求こそが「智慧」と呼ばれるものでしょう。モノに捉われバラバラに認識している限りこの「全体善の世界」はわかりません。「自他一体の智慧の世界」を覗いてみたいものです。