私たちは日ごろ当たり前すぎるものは見落とすものです。本来は、これこそが自然の真理であり地球の真実だと理解できるものでもそこから分かれたものばかりを注目しそればかりを研究して議論しています。
例えば、空気という存在、引力という存在、他には、いのちという存在であっても、あまりにも当たり前すぎるものは議論するまでもありません。
よく考えてみたら、なぜ生き物に目があるのか、耳があるのか、触覚があり、呼吸をするのか、もしくはなぜ水が循環するのか、音が存在するのか、食べないといけないのか、地球が自転するのか、宇宙があり銀河が螺旋のように回転しているのか、あまりにも真実が真理過ぎて語ることもないのです。
しかしここに共通点があるところから、考察すると何をもって自然といい宇宙というのかという基本が観えてくるように思うのです。
みんなが持っている目、これは動物だけでなく虫にもありますし魚にもあります。なぜ目があるのか。この目は、なぜ存在しこのような活用をするのか。その共通点を探っていきます。どのように進化させてきたか、歴史をたどりながら目とは何か、何のために目があるのかに気づくように思います。そして目をどのように使っているのかでまた観える世界が異なるのを理解します。
生きものたちに共通して使う目は何か、そして生きものたちがそれぞれに目をどのように使っているか、それをよく考察すれば目というもののハタラキから真理が現われてくるのです。その真理には、科学的な目もあれば心の目といった意識の目もあります。目を開けて目を閉じる、この間に世界は分割されています。私たちは、目を開けることによって世界を開け、目を閉じることによって世界を閉じます。これは生と死とも同じです。
座禅でよくするような半眼のとき、私たちはその両方を観てその空間にある真実を見極めます。これも目のハタラキを活用した真理や真実との活用法とも言えます。
長くなりましたが、自然にあるもの、真理や宇宙というものを見極めるとき私たちはそこに共通のものを見出す必要があります。そうすれば真実がわかり、自分たちが回帰するところがあることを知り、永続的ないのちを保つことができるように思います。
現在は、惑わされる情報ばかりで真実や真理に対する尊敬や、自然に対する謙虚さが失われています。これでは末長く持つことはありません。子どもたちのためにも、本物や真実を大切にしてこれからもかんながらの道を発信していきたいと思います。
コメント
『八正道』の最初に「正見」がありますが、「正しく見る」とはどういうことか?!だけでとても大きな修行課題です。人は「自分に都合よくしか見ない」と言われますが、そうなると「自分の目」だけで見ていては真理・真実は見えないのかもしれません。また「心眼を開く」とも言いますが、生かされている世界がどこまで見通せるか?!見る力における正しさというものを日々探求したいと思います。