全ての物や場には「いのち」というものが宿ります。そのいのちをわかりやすく感じる方法は、「思い出」でというものに置き換えてみるとわかるように思います。
無機質だったものが、何かの物語に出会い、そこで共通する「思い出」を持ちます。そのものは、ある人の思い出になりその人の心の中で共に生きいのちを与えられます。するとそれはモノではなく、いのちの一つになって存在するようになります。
つまり「出会う」のです、いのちとしてのご縁と。
これがいのちの一端を感じる方法であり、思い出はみんなそうやっていのちとつながっていきます。例え、片方がこの世から去りそのものがなくなっているように感じたとしてもその思い出といのちは、別のものに引き継がれ一体として残りのいのちの寿命を全うしていくのです。
この仕組みとこの仕掛けこそ、私たちが存在するいのちの真理であり私たちはその仕合せと喜びを無償で天与されているのです。ありとあらゆるものが、変化し、思い出と共に循環するという仕組みは宇宙の本体でもあります。
だからこそ、その寿命を少しでも伸ばしてあげたいという思いやりはその人の寿命だけでなく全体の寿命も伸ばしていくのです。それを神道では真心といい、観音様は大悲といい、イエスキリストは愛といい、孔子は仁と呼んだようにも思います。
もったいないというのは、この思い出を大切にしていくということと同じ定義です。下位概念である、捨てないとか、利活用できるとか、その辺ももったいないといいますが本来はこの「思い出」の方を言うのです。
一日、一瞬、人生はそのすべてをいのちと共に歩んでいきます。だからこそ、大切ないのちの思い出を忘れないで、いのちの思い出と共に暮らしていく。
これが暮らしの本体なのです。
暮らしフルネスという言葉は、暮らしとマインドフルネスの合体した言葉であり、現代の西洋思想に取って代わられた日本人が分かるように転換した言葉です。改めて、一つ一つのいのちを大切にしながらもったいない暮らしを味わっていきたいと思います。
コメント
司馬遼太郎さんは「歴史は、誰かが語らないと歴史にならない」と仰いましたが、様々なかたちで語り継がれて後世に生き続けています。また、「人は、肉体が滅びたときと、みんなの記憶から消えたときの二度死ぬ」などと言われることもありますが、「いのちの存在」は必ずしも語られなくとも、いろいろな人の中で生き続けるのでしょう。縁ある一つひとつのかけがえのないいのちともに、このいのちも精一杯生きたいものです。