国家とは、クニとイエという言葉で成り立っています。そもそもクニとは何か、イエとは何か、かつての人たちは何をもってクニとしイエとしたか、改めて原点回帰が必要な気がしています。
私は、壊れているものや傷んだものを修繕して甦生させることで徳を引き出し徳に報いる実践をしている場道家を名乗ります。これは本来のものを蘇らせ、かつての本質を磨いて回帰させて今の人たちに再認識できるようにする仕業とも言えます。
本質とは何か、それは本来のものということです。その本来のものとは、はじまりの本質であり分化したり発展したりする前の状態の事です。
例えば、山とは何か、川とは何か、雲とは何か、火とは水とは、木とはなどあらゆる現象の本体を本質ともいうのです。この本体は、形を変えていきますから私たちが言葉にしているのは特徴の一部であって本体ではないことがほとんどです。私はこの本体のことを見出し、それを引き出していく作業をするとき「徳に報いる」という手法を使っているのです。
その本体の最高の本質をどう引き出すか、それには時を遡りながら修繕していくというプロセスが必要なのです。どのように辿ってきたか、そして何があったのか、何を経験したのかを知るとき、そのものがどのような意志と徳があって存在したのかを実感するからです。
これを別の言い方では、歴史ともいい、温故知新という人もいます。
時を遡る作業というのは、時を超越する作業のことです。時という現在の世の中の概念を少し横において、そのもののいのちと深い対話をしながら時の本体を感じるのです。
そうやって徳を磨いていけば、次第にそのものの徳は引き出されて本来の姿に回帰していきます。ものやいのちが甦生するというのはそういうことで、私たちは徳をもって永遠の存在を宇宙や自然に保障されているのです。
こういうことを書くとどこかスピリチュアルな話だなといわれるかもしれませんが、物質的な言葉を使って物質的ではないことを書けばすぐにそう受け取られるものです。言葉には本来、二つの作用があり、目に見える言葉と目には観えない言葉によって形成されています。
私たちが日常で使う言葉のほとんどは今は目に見える言葉になりましたが、目に見えないことを伝える言葉も本来はたくさん存在したのです。なぜならそれが言葉の本体であったからです。二つのものが一つに存在する言葉、それが言葉の原点回帰です。
話が長くなりそうなので、この辺でまとめると大切なのは「徳」を鑑みることです。
徳を鑑みて、本来のあるべきようを悟り、今を生きる。
子どもたちに先人からの徳を磨いて繋ぎ、人類の遺徳をそのままに伝承していきたいと思います。
コメント
幸田露伴は「文明というのは人々が福を植えた結果であり、災禍は人々がその福を切り捨てた結果である」「徳や智を積むことが人類の今日の幸福の源泉になっており、それが福を植えることになる」といっています。ここに言う「植福の精神の断絶」こそが、現在のあらゆる災禍の根本原因なのでしょう。この「植福の精神」を取り戻し、子孫に対する最大の植福の仕組みを復活させたいものです。