人類は、果たして進化しているのか。
この問いは、とても大切であると私は思います。
そして進化とはそもそも何を指すのか。
私はこの進化については一つの結論が出ています。
理由は、いのちを観察すると観えるからです。
人間であれば、最初に赤ちゃんになります。
赤ちゃんは最初からすべてを持っていて、完全無欠です。
そこから刈り込みといって、不必要なところを削り、必要なところを残ります。
これを洗練とも私は呼びます、つまりシンプルにしていくのです。
その場の環境や状況、時代、周囲の風土に合わせて削り込んでいくのです。
そして顕現した姿が、その人の一生となります。
すると、進化とは何かに戻ります。
進化とは、そもそもの状態、原始のままでいることです。
現在翻訳される進化はどちからというとプロセスを指しますが、本来は結果を指すものだと私は思います。
つまり進化=原始なのです。
如何にシンプルであるか、如何に洗練されていたか、それは歴史を遡れば、今の文明社会ではないことは自明の理です。縄文時代、もしくはもっと前、人類は自然と一体になり心豊かに平和を続けた文明がありました。縄文人や原始人のことを、野蛮だとか、古くさい野生の動物のようなとか言いますが果たして本当にそうでしょうか。
それでは今の人類のいう知性と比べてどうでしょうか。
現在のようにゴミを増やし資源を吸い上げ環境を悪化させ欲とお金にまみれて差別や貧困、権力や戦争、これが知性であり進化でしょうか。
もっと本来のこと、真実のことを刷り込まれていない頭で考えることだと思います。
真っさらになれば、あるがままとは何か、本来がどうであったかに気づきます。私はこの本来がどうであったかを知ることが、生きる意味を学ぶことであり、ありとあらゆる学問が分かれる前の自然の姿だと思います。
伝統や伝承の中にはまだ連綿と真実のいのちの流れが宿るものがあります。
未来の人たちがこの時代をみたらどう思うでしょうか。
人類史の2000年、一部の人たちが何をやってきたか。それを人類と呼び、本来の人類の歴史を上塗りしてきました。100年後くらいの人は、今の私たちをバブルで欲望のままに突き進んだ世代などと呼ばれるのでしょうか。博打的に全部稼いだお金を使い切ろうとした世代とか言われるのでしょうか。
どちらにしても、子どもたちのことを思えばとても悲しいことです。
今ならまだ間に合う、そうやって奮闘してきたのもまた人類史です。人を愛するからこそ、諦めることができない、愛を知るからこそいのちをぶつけて夢を追いかけることができる。
環境問題の根源とは何か、今一度、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
コメント
「仏性」「神性」「良心」といわれるものがありますが、それは誰もが備えている「より善きものであろうとする純粋で愛に満ちた自分自身」でしょう。それはまた「徳」といってもいいかもしれません。本来光り輝いているものに、いつの間にか埃や垢が積もり、欲や保身にまみれ、「ほんとうの自分を見失っている」というのが、現在の私たちでしょう。「真心」「思いやり」「誠実さ」「寛容さ」「信じる心」といった徳性を自分自身の心の中に見つけ出し思い出して、日々の暮らしのなかでどこまで明らかにすることができるか?!進化の高みというのは、そういう姿をいうのではないでしょうか。