徳法一致

現在、世界の国々では徳治国家か法治国家の間で様々な政策が検討されています。しかしそもそもこの徳治や法治というものは、本来は目的であるものが手段に入れ替わり、今では別の意味で使われていることがほとんどです。

そもそも徳や法そのものが、思いやりからのものであるのならそこに使われる手段もまた思いやりに満ちたものです。しかしそれがネガティブで疑心暗鬼のものならその徳や法もまた別の意味に挿げ替えられるのです。

人間は、自己中心的な生き物です。

自己を中心として、善悪を決め、そして自分が正しいかどうかの基準を自分の都合で入れ替えていきます。それは歴史が証明しているものであり、現在の国家間のいざこざも冷静に分析すればそれがすぐにわかります。

例えば、人類共通の徳というものがあるとしたらあらゆるいのちへの思いやりです。一緒にこの世に生きているもの同士であるからこそ、相手のいのちもまた自分のいのちの一部と捉え大切に慈しみ接していくこと。自然界の生き物たちはまさに徳治の本質です。

自らで律し、自らが共生するために協力し合う社會を育てることが本来の徳であり治まるということでしょう。そういう意味では、徳や法は外側にあるものではなく人間力といったそれぞれの内面の中に磨いていくものであるのです。

一人一人がみんな自己の中にある欲望や自利的なものを治め、バランスを崩さないように暮らしていくこと。言うなれば自然にかかわり自然との共生に力を貸し、その利子分だけでみんなで分け合い賄うというシンプルな暮らしが徳治であるともいえます。

法治からみた徳治、徳治から見た法治というような対立概念ではなく、徳法一致の全体調和を目指すことこそ、原点回帰であり人類の末永く発展できる未来ではないかと私は感じます。

そのためには、徳法一致する仕組みが現在に必要でそこにブロックチェーンの仕組みが活かせるのではないかと私は信じているのです。

子どもたちのためにも、徳積の智慧を用い時代に挑戦してみたいと思います。

  1. コメント

    「性善説」と「性悪説」という人の見方がありますが、その実態は、同じ人間が状況によって「善を現す時もあれば、悪に迷う瞬間もある」ということではないでしょうか。問題は、その時に「何を頼りに自己をコントロールするか?!」ということです。「法」や「規制」は、間違いの気づきにはなりますが、相対的で自己は確立できません。できれば「人間としてどのような自分でありたいか?!」ということを「自戒」の基準として、各々がその徳を明らかにし、時に迷いを自制するという、日本古来の人道の復活を望みたいところです。

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