現在、徳積茶堂を建築していますが場と間の調和を念頭において居心地の善い配置を組み立てています。私は設計士でも建築士でもなく、専門家でもありませんからそのまま物や人、あらゆる自然と対話しながら初心に照らし目的に向かって純粋に取り組んでいくだけです。
その中で、あらゆるものが集まっていき一つの思想が練り上げられそぎ落とされ最終的な姿が現れます。家が喜ぶか、場が喜ぶか、みんなが喜ぶか、徳が喜ぶかと一つひとつ丁寧に対話しながら進めていきます。
今回は、古来からの茶堂や御堂を温故知新していきますからそのむかしのイメージに照らしながら現代では何がその役割を果たすのかと変換し翻訳していきます。私はそれを甦生と呼びますが、神道では常若ともいい、儒教では温故知新ともいいます。
結局、何のためにその「場」にその建物を建てるのかというのが原点でありそれはその場と共に暮らしを営む人の生き方や暮らし方までが混然一体と一如になるのです。私は炭を愛し、炭によって茶を点てます。私は茶の方法などはあまり詳しくありませんが、自然のままの火や水や風、光や木や鉄などのいのちそのものを味わい楽しむタイプなので炭は最高のパートナーです。
そのパートナーと一体になって茶を入れる仕合せは格別です。それを共に味わい、共に感じるなかでお互いのいのちを喜ばせるようにしています。そこに上下関係もなく、裏表もなく、ただお互いにいのちを尊重し合う関係であり続けるのです。
茶室研究の第一人者中村昌生氏が「茶の湯の機能を持ちあわせていればそれだけで茶室であるとはいえない。茶の湯に使えるという機能を充たしていることに加え、茶の湯の雰囲気を感じさせる空間でなければならない」(『図説 茶室の歴史』淡交社、1998年)と書かれます。
機能や手段ばかりが先行してしまっている現在の建物に対して、私はまさに目的や場を優先して空間を配置していくタイプです。「徳積」がテーマですから、それに相応しいものに近づいている実感があります。
みんながこの場で、古き新しいものに出会い、伝統や文化の持つ徳に目覚め共に懐かしい未来を一緒に創造していければと祈ります。いのちの存在がいつも徳を助けてくれます。ありがとうございます。
コメント
最近、手を入れれば入れただけ「その場が何かを求めている」という感じがあることが、少しわかりかけてきました。そして、その場が整い始めると「場が輝きだすこと」、さらに、場が整っていると、そこで接した「いのちが喜び合い」、いのちが喜び出すと「徳が明らかになる」という感覚も、大分わかるようになってきました。その分、手入れをしないことの申し訳なさが強まり、「本気で暮らさないといけない」とわかった気がします。