腸活と発酵訓

貝原益軒が「養生」という言葉を遺しています。これは、今の時代とても重要な考え方でありその生き方から学び直すところが多いように思います。もともと身体が弱く病気がちであった人生を、健やかに逞しく生きていくなかで自分の実体験から生まれた智慧がこの養生訓です。

この養生訓は正徳2年(1712年)に養生(健康、健康法)についての指南書として益軒83歳の著作です長壽を全うするためには身体の養生だけでなく、精神の養生も同時に必要といいます。

この貝原益軒は、健康的で無病息災の元気な人ではありませんでした。小さい頃から重病を抱え、誰よりも用心深く体に注意をして人生を送ってきた方だといいます。この時代、平均寿命50年未満だったのに80歳を超えても歯は一本も落ちず、暗い夜でも小さい文字の読み書きができたと自ら書き残したといわれます。まさに養生訓そのものの人生を送ってこられた方です。

現在、コロナウイルスのこともあり如何に免疫を高めるかということが大切であることを再認識しています。いくら病院を増やしても、薬を増やしても、病気になってしまったら大変な目に遭います。そうならないようにするためには、未病といって病気にならないように養生していくしかありません。

この養生のポイントについて貝原益軒は「治療は下策」であるといいます。その一つに、「腹の中を戦場にするな」といいます。目の欲、口の欲で食べるのではなく、胃腸そのものの状態にあわせて身体が必要なものを優先することだといいます。

これを現代では、腸活と呼んでいるのかもしれません。

そして具体的な実践は、まず心の整えることからと説きます。

「養生の術は先ず心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、を少なくし、心をくるしめず、気をそこなはず。これ心気を養ふ要道なり。」

そしてこうも言います。

「養生の術をまなんで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり。人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。然るにこれを養なふ術をしらず、慾を恣にして、身を亡ぼし命をうしなふこと、愚なる至り也。身命と私慾との軽重をよくおもんぱかりて、日々に一日を慎しみ、私慾の危(あやうき)をおそるること、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如くならば、命ながくして、ついに殃(わざわい)なかるべし。豈(あに)、楽まざるべけんや。」

つまり、心を養い身を慎む、そして天寿を全うする。シンプルですが、これができないから養生して仕合せに生きられないというのです。そして自分の身体は自分のものではないということを説きます。

「人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。」

天寿ということの本質です。またこれは暮らしフルネスで私が取り組んでいる生き方に酷似しています。

「ひとり家に居て、閑(しずか)に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆これ心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人もこの楽つねに得やすし。もしよくこの楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。」

別に私は霞を食べていきているのではなく、真の豊かさや仕合せを味わい子どもたちにその生き様を伝承していきたいと思っているのです。

養生は今の時代は、発酵訓とも言い換えれるでしょう。養生する生き方は、発酵する生き方と同義なのです。そして発酵する生き方とは、心身が喜び、自然も喜び、全体も喜ぶ大調和の生き方のことをいいます。

暮らしフルネスの中の腸活の定義を明確にし、暮らしの実践を楽しみ味わい真の豊かさを導いていきたいと思います。

 

  1. コメント

    「病気を治す」ということと「病気にならないように注意する」ことは、生き方が違います。「身体が求めるものを食す」のと、「目や舌が欲しがるものを食べるの」も、生き方が違います。また、「自分の体だから私の自由」と思うのと、「体は人生修行のための借りもの」と考えるのとでも、生き方が違ってきます。単なる「肉体」ではなく、「色心不二」であるという「からだ」というものの意味と価値を見直す必要があるようです。

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