昨日、徳積財団の活動について話し合いを行いました。徳というものは、必ずこの世に存在しているものですがその徳を大切にするということを意識することは減ってきているように思います。
そしてその徳を積むとはどういうことか、そして何のために積むのか。私は魂を磨くことで徳が磨かれることに意味があると信じていますが過去の先人たちもみんなその徳についての言葉を遺しています。
松下幸之助さんは、「人間で一番尊いものが徳である」ともいいます。その話の中ではこう解釈しています。
『君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。』
これはなぜ教えることも習うこともできないか、それは無我無心の境地であるからだと思います。徳はただ磨く境地ですからただ磨くというのはただ動くということです。それは実践するといっていいかもしれません。実践する人は、そこに磨こうとする意志があります。そこに徳が集まってくるのです。
老子はこういいます。
徳のある人は自分の徳を意識しない
それは得が身についているからだ
徳のない人は徳を意識するため、
なかなか身につかない
だから、
最上の徳は無為であり、
わざとらしいところがない。
低級な徳は有為であり、
わざとらしいところがある。
最上の仁は無為であり、
わざとらしいところがない。
低級な仁は有為であり、
わざとらしいところがある。
つまり、無為自然であることこそ最上の徳であるということ。真心はそのまま徳になるのです。
子どもたちはその真心をどうやって学ぶのか、それは知識や知恵とはまた違います。それはその人の真心の行動によって学ぶのです。真心は必ず伝わり、真心は必ず天に通じます。
これを吉田松陰は「至誠」といいました。
先人に恥じないように、真心を盡して徳を磨いていきたいと思います。
コメント
「少しは感謝できるようになった」と思っても、しばらくすると、「まだまだ感謝はわかっていなかったな」と反省することになります。それは、「素直さ」でも「謙虚さ」でも同じで、このようなことを繰り返しながら、だんだんとわかってくるようになるのでしょう。「徳目」を磨こうとしていると、周りの人の徳積みの姿がだんだん見えるようになり、その素晴らしさに気づくことで、自分の背中も押せるようになってきます。まずは、世の中の徳がもっと見えるようでありたいと思います。